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アメリカ・カナダ旅行記 2008

作成 2008. 11. 15

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<はじめに>

2年前のボストンマラソンでの私

今回、5月連休を利用して、アメリカ・カナダの自然をめぐる9日間の旅行に行ってきた。訪れた場所は、モニュメントバレー、グランドキャニオン、カナディアンロッキー、ナイアガラで、途中、モニュメントバレー、グランドキャニオンの中継地としてカジノの本場ラスベガスにも滞在した。これは私にとって4回目の海外旅行であるが、今までの私の海外旅行との決定的な違いがある。それは、今まで私が海外へ行ったのは、93年、01年のニューヨークマラソン,、06年のボストンマラソンと、全てマラソンの参加が目的であったが、今回はそのマラソンとは全く関係のない旅行であるということである。私が今回この旅行に行こうと思った理由はいくつかあるが、今までの「○○マラソン参加」という枠に縛られずに、好きなところへ行ってみたかったというのがある。私は以前からグランドキャニオンには一度は行ってみたいと思っていたが、これをマラソン参加という枠に縛り付けてしまうと、いつまで経っても行けなくなってしまうから、今回思い切ってマラソンと関係ない旅行に行くことにした。実は私は昨年転職し、前の会社では入社10年目以降5年に一度、一年間の好きな時期に1週間休暇を取れる制度があったが、今の会社ではそういう制度がないため、旅行費用はかさむが必然的に長期間休める5月連休等の限られた期間になってしまった。それから今回旅行に行くにあたって、両親を誘うことにした。2年前のボストンマラソンの時に母を誘ったが、両親と一緒に外国へ行ったことは今まで一度もないため、一度両親が元気なうちに一緒に外国へ行きたいと思っていた。それも一生の内で何度も行けないであろう所が良いと考え、今回のグランドキャニオンを含めたアメリカ・カナダ旅行に一緒に行ってもらうことにした。

今回のこの旅行、海外旅行慣れしている人ならともかく、そうでない私にとってはやはり旅行会社が主催するツアーに参加するのが安全で費用的にも最も安く上がるので、ツアーに参加することにした。ツアーを探す際に条件としたのは、まずグランドキャニオンを回ること、そして日程のほとんどが私の会社の5月連休中(4月29日から5月6日)に収まること、そしてツアー料金がリーズナブルであること(一応、ツアーを申し込むにあたって料金の上限は決めていた)であった。そうやっていくつか候補を探したが、この条件にあうツアーというのが思いの他少なく、実は探すのに苦労した。そして某JTB旅物語のグランドキャニオン、モニュメントバレー、ヨセミテ国立公園を巡る4月30日から5月7日のツアーがその条件に合致し、それに申し込むことにした。しかし、そこで予想しない展開が待っていた。当初このツアーを申し込んだときは、5月連休中だし確実に催行されると考えていたが、ネットでそのツアーのページをたびたび確認に行っても一向に催行という表示にならないのである。そしてついにツアー日程前45日前になり、人数が足りず(催行基準が20名の中、我々以外に申し込んでいたのはたったの2名)このツアーが催行されないという通知が旅行会社から来た。しょうがないから他のこの条件に当てはまるツアーを探したが、この条件に当てはまるのは違う某旅行会社のツアーぐらいしかなく、このツアーについても説明を聞きに行ったが、結局人が集まらずに催行されない可能性が高いという回答だった。もうこの連休中に旅行に行くのは諦めかけたところ、ちょっと私の基準のハードルを下げてみたところ、当初の私のツアー金額の上限は超えてしまうが、当初申し込んだツアーに4万円プラスすれば、条件に合うツアーが見つかった。それがJTBのモニュメントバレー、グランドキャニオン、カナディアンロッキー、ナイアガラを回る4月28日から5月6日までの9日間のツアーであった。しかもこのツアーは催行が決定してある。そして、もうこれに申し込むしかないと即決して申し込んだ。ちなみにツアー料金は、当初申し込んだツアーへの申込み時期が早かったので、一人あたり1万円割引になっていた。それにしても7年前にニューヨークマラソンに申し込もうとしたときは、一般のサラリーマンなら平日に何日も休みを取らないと参加できないにもかかわらず、募集開始初日にどのツアーも定員に達してしまったことを経験していたので、5月連休というサラリーマンが平日に無理して休みを取る必要がない時期にある、グランドキャニオンなどメジャーな場所を訪れるツアーでまさかこれだけ人の集まりが悪いとは予想もしていなかった。まあ、当初考えていた、アメリカ西側のみの自然を回る旅行とは巡る場所が若干変わってしまったが、とにかく無事旅行に行くことができることになり、ほっとした。ちなみに、このツアー、パンフレットでの予定だと、ナイアガラ → カナディアンロッキー →アンテロープキャニオン→ モニュメントバレー → グランドキャニオンと回る予定であったが、飛行機の予約が取れなかったらしく、逆のルートのアンテロープキャニオン→モニュメントバレー → グランドキャニオン → カナディアンロッキー → ナイアガラの順に変更になったと直前に通知が来た。こちらとしては、訪れる場所は変わらないから別に問題はないとして、そのままOKとした。

まあ、予定していた旅行に行けることになったのでめでたしめでたしといきたいところだが、実は寝耳に水のこともあった。それは、ツアー代金以外に燃油サーチャージ料と空港使用料合わせて、一人あたり約5万円の追加料金を取られるということである。空港使用料については、私も過去海外へ行ったときに別途取られていたので、これについては心得ていたが、燃油サーチャージについては正直よくわからなかった。ツアーに申し込んだときに、実はパンフレットにそのことについて書かれていたのだが、大したことはないだろうとろくに読んでいなかったら、いきなりこれだけで一人あたり4万円の追加徴収である。さすがにこのときは、「燃油サーチャージといったい何ぞや?」と調べないわけに行かなくなりネットで調べたところ、「近年の原油高騰に伴い、企業努力では運賃の範囲内でまかないきれない際に、航空会社が設定している運賃とは別建てに徴収される料金で、2005年から導入された。」と出ていた。ちなみに、今回のツアーの全ての飛行機移動で利用するエア・カナダの燃油サーチャージ料は、日本-アメリカおよびカナダ間では2万円であった。今回は、どうしても行きたい旅行だったので、こんなことがあっても旅行に行く気持ちに揺るぎはなかったが、軽い気持ちで計画していた旅行だったらならば、やはり考えてしまう。この燃油サーチャージ料の問題のせいで海外旅行を断念してしまうことも十分考えられる。ニュースで、今年のゴールデンウィークは休みを取りにくい日程だったので海外旅行が例年よりも少ないとの説明があったが、決してそれだけの理由ではないであろう。燃油サーチャージ料の高騰もかなり影響しているように感じる。



<旅行日記>

初日(4月28日) ラスベガス到着

いよいよ旅行初日が来た。集合時間は午後5時でかなり余裕があるが、家族みな成田空港へ行く機会というのはそれ程ないので、余裕を見て集合時間の2時間前には空港へ着くようにした。空港で米ドルとカナダドルの両替などをして過ごした後、旅行のしおりに指定されていた集合場所へ行ったところ、JTB旅物語の今回のツアーのカウンターがあり、今回のツアーの添乗員さんであるSさん(女性の方)が受付を行なっていた。今回このツアーに参加するにあたって、ネットでいろいろ情報を調べたのだが、添乗員にも結構当たり外れがあるということがわかった。そしてこの添乗員さんはどうなのかなと思いながら受付をしたのだが、口調がハキハキしていて、こちらがしなければならないことを的確に指示してくれて、こちらに全く不安を抱かせない印象だった。もうこの最初のコンタクトだけで、この添乗員さんは間違いなく信頼できると確信した。そして受付後、成田からの飛行機に乗る搭乗券以外の航空券は、Sさんが全て預かりますと言われた。こんなこと初めての経験であるが、この長い9日間のツアーの中で、各人に管理を任せて紛失騒ぎが起こるのを防ぐのが目的なのだろうと感心した。それから、今回TSAロック仕様のスーツケースを持ってきたので、鍵をかけてスーツケースを預けてよいかSさんに尋ねたところ、鍵を壊されない保証はないので、TSAロックでもやはり鍵をかけない方がよいとのことだったので、鍵をかけずに預けた。このツアーで、結局TSAロックが意味ないことがわかった。

機内食で出てきたチキンカレー

機内で頼んだカナディアンビール

今回、最初にグランドキャニオンやモニュメントバレーのあるアリゾナ周辺を回るので、その辺を回る中継地点としてまず定番のラスベガスを訪れることになる。ラスベガスへ行くにはいろいろなルートがあるかと思うが、今回のこのツアーは全てエア・カナダを利用しているせいか、カナダのバンクーバー経由でラスベガスというルートになっている。従って、成田から最初に乗る飛行機はバンクーバー行きのフライトとなる。7年前のニューヨークのテロ以降厳しくなった手荷物検査を通過しバンクーバー行きのフライトへ乗り込むと、このフライトはANAとタイ航空との共同運航とのことである。「共同運航とは何ぞや」と思ったが、フライトアテンダントに日本人がたくさんいる。確認した訳ではないので何とも言えないが、エア・カナダだけで日本語をしゃべれるフライトアテンダントをたくさん集めるのは大変なので、ANAと共同運航することによってその辺のサポートを受けているのではと思った。そういえば、今回を含めて今まで4回アメリカ大陸へ行ったが、15年前(ユナイテッド航空)と7年前(ノースウェスト)は日本人フライトアテンダントが一人もいなかったが、2年前(コンチネンタル航空)では、かなりの日本人フライトアテンダントがいた。今まで全て航空会社が違うしたまたま偶然かもしれないが、この2年の日本発の外国の航空会社のフライトで日本人アテンダントがいるというのは、やはり日本人利用客の利便性を考えてそういう方向になってきたのではないか。今回の座席も例によって飛行機の真ん中の列にあるというあまり良くない位置だ。まあツアーだし、しょうがないだろう。2年前に成田からニューヨークへ行った時は、前の人の背もたれの真後に小さなスクリーンがあったが、今回はない。ブロックの最前列に中ぐらいのスクリーンがあるのみで、ちょっとがっかりした。また、父が、座席が狭いと訴えてきた。私は、そのときは「エコノミークラスだし、こんなもんじゃないの?」と返事をした。離陸前には、機長とフライトアテンダント(の代表?)からの英語のアナウンスがあったが、これがあまり聞き取れない。2年前にボストンへ行って以来、コンスタントに英語の勉強を続けてて、聞き取り能力もかなり向上していたつもりだっただけに、ちょっとショックだ。やはり本場のネイティブが自然にしゃべる英語はそう生易しいものではないということか?それから、アナウンスは必ずフランス語でも行なわれていたが、カナダが英語の他にフランス語も公用語で、今回利用している航空会社がエア・カナダであるということもあるのだろう。

バンクーバー空港内の様子


機長、フライトアテンダントからのアナウンスが終わってから、いよいよ離陸し、バンクーバーまでの9時間のフライトが始まった。2時間ほどして機内食が出てきたが、食事を配るアテンダントは「beef or chicken」としか言わない。どうもchickenはチキンカレーのようなので、カレーは嫌いじゃないし、チキンを頼んだ。出されたチキンカレーを食べてみると、これがかなりいける。今までモソモソしたおかずにパンというパターンが圧倒的に多かった機内食と比べて、日本人である自分にとっては、今回のメニューはかなり良く感じた。ひょっとすると今まで食べた機内食の中で、一番美味しいかもしれない。それから、機内でフライトアテンダントが乗客に飲み物がほしいかどうかを聞くときに、定番表現では「Would you like something to drink ?」であるが、実際には前半を省いて目的語だけの「Something to drink ?」ということが多かった(これは、このときだけでなく、旅行全般を通じてそうだった)。英語があまり通じない日本人乗客が多かったからなのか、それとも普段もそうなのかはよくわからない。成田を出てから9時間、やっとバンクーバーに着いた。ニューヨークまでの12時間に比べたら短いとはいえ、9時間もやはり長い。しかも座席が窮屈だっただけに、結構しんどかった。バンクーバーの天気は曇りだった。まあ、バンクーバーはラスベガスまでの中継地で空港の外へは出ないので、天気はどうでもよいのだが、やはり久しぶりに外国の地に着いたときは晴れていた方がいいなとは思った。飛行機を降りて、バンクーバー空港の中の移動を始めると、すごく綺麗な空港の造りでビックリした。ガラス張りの渡り廊下が空港内のショップ街の上を通っており、このような造りの空港は今までで初めてである。この空港で、ラスベガス行きのフライトへ乗り継ぐが、その前にアメリカへの入国審査がある。ガラス張りの渡り廊下を通ってアメリカ入国審査の検問所へ着くと、順番待ちだ。今まで何回も経験しているし、別に大したことはないのだが、この旅行で最初に英語で真剣に質問を受ける場となるのでやはり緊張する。順番が着て入国審査官から呼ばれ、両親と共に審査官の前に行く。一通りの簡単な質問に答え、7年前の9.11のテロがあってから、アメリカ入国に導入された指紋と顔写真を取られた後、無事通過。


飛行機から見たアメリカ西部の砂漠

飛行機から見たラスベガス

アメリカへの入国審査を通過した後は、ラスベガス行きのフライトへ乗る搭乗ゲート付近で時間が来るまで待ち、搭乗時間が来たら飛行機へ乗り込んだ。飛行機へ乗ったら、指定された座席へ座り、そのままラスベガスへ行くところだったが、ここで思いもしていなかったことが起きた。フライトアテンダントが、我々に英語をしゃべれるかと聞いてきたのである。私の両親は「No」、私は「Just a little(しゃべれない訳ではないが、少しだけ)」と答えたのだが、何と強制的に我々の座席が、後ろに座っていた人達と交換させられてしまったのである。Sさんによると、我々が当初座った座席は、非常口のすぐ横にあり、緊急時に英語がきちんと理解できないと避難の時に支障が出るため、非常口のすぐ横は、英語が完璧に理解できる人達が座るのだという。確かに、成田からここまで来る間に生の英語を聞いてきて、実際聞き取れないところが予想外に多く、もし緊急時に英語の指示に従ってちゃんと行動ができるかと言われると、正直言って自信がない。やはり、強制的に座席を交換させられたのは、正解だと思う。それにしても、2年前のボストンマラソン以降決意して、毎日コツコツ英語の勉強を継続してきて、実際、当時よりもかなり聞き取れるようになってきていると実感していただけに、生の英語をこれ程聞き取れないという事実を突きつけられたのはちょっとショックだった。そして、こちらが聞き取れない英語を、Sさんが事も無げに普通に聞き取って相手と会話している姿は、いくら向こうが海外旅行の添乗員というプロであるとはいえ、すごいと思った。座席を交換した後は、私の座席は窓際となった。今度の飛行機には、目の前の背もたれの裏に映画等を見るためのスクリーンが付いていた。座席は、成田からバンクーバーまでの飛行機に比べて明らかに余裕がある。バンクーバーまでの飛行機では、膝を折り曲げ常時縮こまっていなければならなかったが、ここでは多少脚を伸ばせる余裕がある。自分が今まで乗ってきた飛行機もみなこれぐらいは余裕があった気がするので、やはり成田からバンクーバーまでの飛行機の座席が狭かったのであろう。それから、バンクーバーからラスベガスまでのフライトでは、北米内の移動であるため、(当然のごとく?)日本人、および日本語をしゃべれるフライトアテンダントはいなかった。バンクーバーを経ってからは、すぐ雲の上になってしまい、バンクーバーからラスベガスまでの2時間40分のフライトのうちの大半はその風景であったが、そろそろ着陸が近くなるであろう時間になって、見慣れない風景が目に飛び込んできた。緑が全くない山や、ごつごつした岩の風景が飛び込んできたのである。しかし、こんな風景今まで見たことない。初めて見る見慣れない風景なので、思わず見入ってしまい、写真も撮った。しかしこんな風景、日本の上空を飛ぶだけでは決して見ることができない。つくづく地球は広いと改めて感じた。そうやってそのような緑のない風景の上空を飛んでいるうちに、緑のないごつごつした砂漠のような土地の中に、ところどころ緑に囲まれた人家の集まりが見られるようになってきた。回りが岩だらけの小さな山のふもとに、プールがある家すらある。ラスベガスが砂漠の真中にあるということは知っていたので、いよいよラスベガスが近づいてきたのかなと思った。すると、砂漠のど真中に、金ピカに輝くビルなど、やたら度派手なビルが集まっている一角が近づいてきた。言うまでもなく、これが目的地のラスベガスである。しかし、空から見ても、本当に派手な街だということがわかる。

リビエラホテルの派手な裏口

リビエラホテル内のカジノ

ラスベガス空港(マッカラン国際空港)に着くと、預けていたスーツケースを回収し、あっという間に空港の外へ出た。今まで空港内の移動に時間がかかっていたのが嘘のようである。(まあ、もう荷物検査も何も必要なかったからであろうが。)空港を出ると、いきなり今までとは違う空気が。とにかく、暖かいというか暑い。まるで真夏の最中である。ラスベガスが暑いということは事前情報で知ってはいたが、まだ4月である。正直、実際に体感するまでこんなに暑いと思ってもみなかったので、ちょっと驚いた。空港を出た後は、宿泊するホテルまで送ってくれるマイクロバスに乗り込んだ。バスからは、エジプトのピラミッドがそのままあるようなルクソールや、ニューヨークのマンハッタンの街を凝縮したようなニューヨークニューヨークなどのラスベガスならではのユニークなホテルや、それ以外にも他の都市では見られないような派手なホテルをバスの外に見ることができ、いよいよラスベガスに来たという実感が湧いてきた。この日宿泊するのは、ラスベガス中心街からはちょっと外れたところにある、ラスベガスの中では比較的古いリビエラホテル(Riviera Hotel & Casino)というところである。マイクロバスは、どうやらホテルの裏口へ回ったようで、地味な雰囲気だ。近くには、全体が金色の建物(この時点でホテルだと思い込んでいたが、トランプタワーというマンションとのこと)が見える。バスから降りホテルの中に入ると、またまたビックリした。天井や壁が金ピカで、じゅうたんもど派手な柄である。こんなホテルには今まで泊まったことがない。さすがラスベガスだと思った。この後は、添乗員のSさんがホテルの簡単な案内をしてくれるというので、部屋に荷物を置いた後参加した。このホテルの案内からは、ラスベガス在住の現地係員のFさんも参加した。このFさん、俳優の高橋克典に結構似ている。ホテルの案内は、最初ホテルの中庭から始まった。中庭にはプールがあり、その周りをリビエラホテルの建物が囲み、結構良い風景である。中庭を通って向い側の建物へ入ると、今度はABCストアというコンビニや、リビエラホテルのバフェなど、店がいくつかあった。なお、バフェと何ぞやと思われた人も、buffet(=ビュッフェ)と言われれば、「なんだビュッフェ(=食べ放題料理)のことか」と思う人も多いかと思う。英語でこれを読むと、バフェになるとのことである。(ちなみに、日本ではこの料理のことをバイキングと呼ばれることの方が多いかと思うが、これは帝国ホテルで名付けられた和製英語とのことである。)そして、店があるエリアを抜けると、今度はラスベガス名物のカジノが目の前に現れた。驚いたのは、カジノがホテルの中に当然のように存在することだった。カジノのエリアへ入るのに抵抗感も何も感じない。思えば、2年前にナイアガラへ行った時は、カジノというのはあくまでもカジノと表示された建物の中にあるもので、カジノへの入口には赤じゅうたんが敷かれていて、カジノに馴染みのない人間にとってはとても近寄り難い雰囲気を感じて、遠巻きにそれを眺めるだけだった。それが、ラスベガスでは平気でカジノのエリアへ入って行くことができるぐらい、抵抗がないのである。これは、ホテルに泊まった人が気楽にカジノへ入り、お金を落としていってもらうためのようである。なお、カジノへ入ってから、現地係員のFさんから、ラスベガスではカジノの写真を撮のは禁止されているとの説明があったので、ラスベガスを最も象徴するカジノの写真は残念ながら撮ることはできなかった。(代わりに父が説明の前にカジノの写真を撮った写真があったので、それを載せました。)それにしても、カジノを見て驚いたのは、パッと見た感じどう見ても普通のおじさん、おばちゃんのような人達がスロットマシーンに興じているのである。ラスベガスのカジノというと、もっとぎらぎらした連中がのめり込んでいると勝手に思い込んでいただけに、かなり意外だった。

リビエラホテルの中庭

リビエラのバフェで食べたメニュー
(ローストビーフが分厚い!)
 

ホテル案内が終わった後は、両親と夕食を食べに出かけることにしたが、それまでちょっと時間があったので、部屋のベッドで少し横になった。しかし、それが本当に気持ち良かった。日本かラスベガスまでは時差16時間。成田からバンクーバーまでは一時睡眠モードの時間があったが、あの狭い空間では寝ることは無理。結局、日本の自宅で起きてから、丸々24時間以上経ってから、やっとまともに身体を横にできたのである。身体を横にするということが、これだけ気持ち良いことかと思った。正直、このまま眠り込んでしまいたいぐらいだった。ただ、やはり食事は食べに行かなければならないので、ちょっと休んだだけで再び部屋の外へ出た。ラスベガスにはたくさんホテルがあり、旅行ガイドに紹介してある有名なホテルのレストランを探す手もあったが、とにかくもう丸々24時間以上も寝ておらず、そのような気力もなくなっていた。もうリビエラホテルの中にあるバフェでいいだろうという意見で親と一致して、リビエラホテルのバフェへ入ることにした。バフェへ着くと料金は前払い式で、店に入る前に払った。値段は20ドルにも達せず、今まで行ったアメリカのレストランよりもかなり安い。店に入ってからは、バフェでは本当に最初に払った料金で食べ放題なのかちょっと不安になったので、店員に直接英語で尋ねてみた。しかし中々言葉が浮かばず、どうにか「Can I have how much food I want ?」というフレーズが出てきて、何とか通じたようだ。(しかし、なんか変な英語だなと思い、後で考えてみると「Can I have these food as much as I want ?」と言うべきだった。)この後、自分達のテーブルに戻ると、自分の分だけフォークとナイフがなかったので、ウェイトレスに「フォークとナイフがない」と言おうと声をかけたがやはりすぐ言葉が出ず、「I have ... no forks and knifes.(実際には、フォークとナイフが複数あるわけではないので、これは間違い)」と言ったら、フォークとナイフを持ってきてくれた。(2年前のボストンマラソン以来、できるだけ毎日英語の勉強を続けるよう心がけてきたが、その内容がリスニングに偏っていた。そして自分で英語を使って話そうという時にとっさに英語が口から出てこないことを気づき始めていたので、それを克服しようとこの旅行の3ヶ月前ほどに「瞬間英作文」という本を購入し、「日本語→英語」の変換を素早く行なうトレーニングを続けてきていたが、どうも3ヶ月という短期間では間に合わなかったようである。)食事を取りに、料理が置いてあるテーブルを回わり好き放題に料理を取ると、結構豪華になった。途中、ローストビーフのかたまりがあり、父がそれを欲しいと言うので、そこにいるシェフ(?)に「Could you slice this for him(私の父のこと)?」、そして私も欲しかったので「and for me」と付け加えて、ローストビーフを切ってもらったら、今まで食べたことがないくらい、分厚いローストビーフが来た。これは、結構食べ応えがあった。食事を終えた後は、ウェイトレスにチップをあげなければと、チップ代金を渡そうとしたが、なぜか受け取ろうとしない。結局私の母がウェイトレスを追いかけて強引にチップを渡したのだが、日本と違う生活習慣の中では、やはりいろいろ思い通りに行かないことが多い。(しかしこれがまた、あらゆることが予測できてしまう日本国内と違って、いろいろ予想外のことが起こってしまう海外旅行の醍醐味とも言える。)

食事の後は、ホテルの中にあるABCストアに入って、自分が部屋に帰って飲む分のビールを調達した。ここで母がお土産を買ったのだが、これを紙で包んでほしいとのことなので、ちょっと考えた末、私はレジの女性に「Do you have something to wrap ?」と尋ねたら、包むための紙を渡してくれた。(しかしこの表現は、私が今まで発した英語の中でも最高傑作のひとつだと思った。something + ○○というのは、言えそうで中々言えない。ちょっと考える時間があると、こういう表現も言えるのだなと思った。ただ、このフレーズ、正しくは最後に with を付け加えるべきだったかも・・・。)ABCストアで買物をした後は、せっかくラスベガスへ来たのだからちょっと夜のラスベガスを見に行ってみようということになった。ラスベガスには、このリビエラホテルのちょっと北にあるサハラというホテル付近からラスベガスの中心街へ向かってモノレールがあるというので、そのモノレールに乗ってラスベガスを回ってみようとサハラまで歩いていくことにした。ラスベガスの一番のメイン通りはストリップという名前の通りだが、リビエラホテルのすぐ向かいにはサーカスサーカスというホテルがあり、ピエロをかたどったネオンがあり、一目でサーカスをイメージしたホテルだとわかる。サハラを目指してストリップ通りを北上して行くと、ひときわ目立つのが、ラスベガスで一番高いタワー(ストラトスフィアタワー)である。これを前方に見ながら、サハラを目指して歩いていくが、これが思いのほか遠く、中々着かない。そしてやっとのことでサハラに着いたものの、モノレールの駅が見当たらない。睡眠不足でかなり疲れてきていたし、結局モノレールに乗るのは諦め、そのままリビエラホテルへ引き返えすことにした。途中、建設中のホテルやマンションが多いのが目に付きながらリビエラホテルに着き、この日を終えた。

サーカスサーカス ストラトスフィアタワー サハラにあるドーム リビエラホテル外観



2日目(4月29日) バストラブルにより見知らぬ地で長時間の立ち往生

半砂漠状態の風景

岩場を通り抜けるフリーウェイ

ガソリンスタンドにある店

この日のスケジュールは、ラスベガスからバスでアンテロープキャニオンへ行き、ここを見学した後、モニュメントバレー近くのカイエンタまで移動し、そこのホテルに宿泊することになっている。この日の朝食は、前日夕食を食べたのと同じバフェで取った。内容は、前日の夕食に比べるとかなり軽いものだった。朝食を取ってからは、移動のためのバスに乗り込んだ。ツアーのメンバーは16名だったが、バスのサイズはかなり大きく40名ほど乗れそうなサイズで、各自かなりゆったりと座ることができた。バスの運転手はジェームスさんというメガネをかけて腹の出た恰幅のよいおっさんだった。バスは、フリーウェイ15号に乗って、ラスベガスから北東方向へ進んでいった。この日からアメリカ西部を回ってまたラスベガスへ戻ってくるまでは、現地ガイドのFさんがずっと案内をしてくれることになっていたが、Fさんによると、ラスベガスの湿度は0%で、日本だと食べ忘れて何日も経ってしまったポテトチップスはしけってしまうものが、ここだと1年経ってもパリパリであるとのことであった。走り始めて少し経つと、周りにはすぐに建物がなくなり、岩や砂がある中に、僅かに草木がある殺風景な景色になった。遠くに見える山には草木が全くない。しかし、このような風景は日本ではまず見られないので、珍しさからバスの外をずっと眺めていた。走っていると、そのうち岩山のふもとを道が通ることもあり、ここから見上げる岩山は中々迫力がある。また、走っていると、見える風景は基本的には砂や岩に僅かに草木が生えているような半砂漠状態の地がほとんどだが、時おり緑豊かな集落があり、まるでオアシスのようである。途中、バスが州の境を越えてユタ州へ入っていくのに気がついた。ラスベガスから1時間半ほどすると、バスはガソリンスタンドへ寄った。ここのガソリンスタンドには、食料品、日用雑貨も売っている。目的地へ行く途中のトイレタイムでここに寄ったのであるが、最終目的地のカイエンタは、ここの原住民であるナバホ族(アメリカインディアンの部族のひとつ)の居留地であり、そこでは酒を買えないため、もしホテルに着いて晩酌をしたい人はここでしか酒は買えないとFさんがいうので、私もここでビールを調達しておいた。

トラブルのあったバスのエンジン部分
(右端の太ったおっちゃんがジェームスさん)

バスが立ち往生している様子

ガソリンスタンドを出ると、バスは再び目的地へ向かって走り出し、私も今までと同じように外の景色を眺めていたところ、30分ぐらい経ってバスが突然減速して、突然路肩の方へ寄っていき、停止してしまった。周囲に別に店など何もないのに、一体どうしてしまったんだろうと思ったが、どうもバスが故障してしまったらしい。しばらくしてジェームスさんがバスの外へ出て行って、バスの後ろの方を調べに行った。それで直ってくれれば良かったのだが、全くその気配がなく、SさんやFさんもバスの外へ出て行った。ちょっとこれは重症かもしれない。そのうち、ツアーのメンバーもどんどんバスの外へ出て行った。私もバスの中でずっと待っていてもしょうがないので、バスの外へ出て行った。バスの外へ出てしばらく様子を見守っていたが、バスの後ろでエンジンを開けたところにジェームスさんがいたので、「What's wrong ? (何が悪いの)」と聞いてみた。すると、どうも水が漏れてしまったためにエンジンがオーバーヒートを起こしてしまったのが原因らしい。そのうち父親がここへ来て、私にジェームスさんに、今までこのバスがどれくらいの距離を走ってきたのか聞いてくれと言ってきたので、「How much miles this bus has ever run ?」と聞いてみた。(実は後で振り返ると、これは「How many miles has this bus ever run ?」が正しかった --- やはり中々とっさに正しい英文を口に出せるまではまだまだ遠い実力だった。)すると、「two hundred thousand miles」すなわち、32万km走ったと答えてくれた。これに対して車に詳しい父親いわく、全然大したことなく、日本車なら全く大丈夫とのことだった。それにしても、ジェームスさんに英語で話しかけてみて、その程度のことはどうにか聞き出すことができたが、正直言ってジェームスさんが話していることの半分も聞き取れていなかった。そして、それ以上ジェームスさんに英語で話しかけてもまともなコミュニケーションが取れるとも思わなかったので、残念ながらそれ以降、こちらからジェームスさんへ話しかけることはやめた。2年前よりは英語の聞き取り能力は向上しているはずなのに、飛行機の中といい、どうも生身の人間から直接英語を聞くというのは、ちょっと勝手が違うようだ。

トラブル地点から見える風景

放牧されている牛

最初に来た黄色い修理車

バスが止まってからは、もう1時間以上経っているのに、この事態の解決については全く進展がない。助けは、一応携帯電話で求めたようなのだが、その助けが来る気配が一向にない。みんなしびれを切らしてバスの外へ出て行ったが、ツアーのメンバーが、お互いにいろいろ話すようになった。まだ2日目で、ラスベガスを出たときはツアーのメンバーの名前や顔もよくわからない状況だったので、普通ならまだメンバーの間でもそう打ち溶けることはない段階だと思うが、幸か不幸かこのように一ヶ所に閉じ込められてしまい、何もすることがなくなってしまったが故に、ツアーのメンバー間でコミュニケーションがなされるようになってしまった。私は再びバスの中へ戻り、暇だからバスの中から双眼鏡で外の景色を眺めていると、何もないようなこの荒れ地の向うに、牛が放牧されていることに気づいた。ほんと、何もすることがないだけに、この牛の群れを眺めているだけで、結構暇をつぶせた。バスがここに立ち往生してから3時間ほど経って、ようやくこの事態に対し助けが来たというので、バスの外に出てみると、真黄色の修理用軽トラックが来ていた。この軽トラを運転していた人が、バスのうしろのエンジン部分に回り、水漏れのあった冷却水の入ったパイプを抜いたが、どうも持ってきたパイプがこのバスのものとサイズが合わないらしい。結局この黄色い修理車は、一番近くの町にサイズの合うパイプを探しに行くとのことで、我々が来た方角の方へ立ち去ってしまった。一番近い町は、ここから車で30分ほどで、往復1時間として1時間あればこの修理車が戻ってきて無事直るはずだったが、我々ツアーのメンバーの間では、そんな特殊なパイプが、こんな片田舎の町には恐らくないんじゃないかということを話していて、案の定1時間経っても全く来る気配がなかった。とにかくここに立ち往生してからは、当然のことながら食事も取っておらず、エンジンが切れているから空調も止まってしまっていて、バスの中はどんどん温度が上がってきており(標高が高いため、ラスベガスのような暑さではない)、みんなに疲れが見えたところ、近くにある町のレストランから昼食のサンドイッチの差し入れが届いた。ただし、我々がこの状況から脱せられる気配はまだない。

マイクロバスに先に乗り込む女性陣

次に来た灰色の修理車

いったいいつになったらこの状況から脱せられるのかと途方に暮れていたところ、小型のマイクロバスを呼んだと、Sさんから連絡があった。そして全員は乗れないからまずは、女性陣をこのマイクロバスで近くの町へ運び、その後男性陣を運ぶことになった。そしてマイクロバスが来た。時間は、既に先程の黄色い修理車が立ち去ってから更に3時間ほど経過していた。そして女性陣がそのマイクロバスに乗り込んで、この場から立ち去って行った。男性陣は、マイクロバスが近くの町へ女性陣を運んでから戻ってくるまで待たなければならない。マイクロバスが戻ってくるまで待っていたところ、今度は修理車が来た。車体の色が灰色だったので、3時間ほど前に来て諦めて立ち去って行った黄色いのとは別の修理車だ。そうこうしているうち、先程ここを立ち去ってから30分ほどして、再びマイクロバスが戻ってきた。今度は我々男性陣と、バスの運転手のジェームスさんもこのマイクロバスに乗り込んで、近くの町へ向かった。スピードは結構飛ばしている印象があった。それにしても、このマイクロバスの運転手のおっさんも、ジェームスさんに負けず劣らないほど、腹の出た体格の良いおっさんだ。この運転手さんの横の助手席にジェームスさんが座って、2人で会話をしているのだが、こっちも聞き取ろうと必死に集中してみたが、ほとんど聞き取れなかった。まあ、マイクロバスが飛ばしているのでエンジン音などに声の一部がかき消されているというのもあるだろうが、やはり本場でネイティブ同士が普段の暮らしの中でする英会話を聞き取るのは、現在の自分の力ではかなり困難であると感じる場面だった。

JB's レストラン

JB's レストランでの夕食の様子

そして目的の町へ近づいてきた。ここは、バスがエンジンを故障してストップしてしまう場所へ着く前に横を通過した所で、ほとんど緑がない半砂漠状態のこの一体の地域に緑と家があるオアシスみたいな所だ。マイクロバスが着いた所は、この町の中のレストランだった。(ツアーの最中にここへ寄る予定など全くなく、この町が何という町であるのかこの時点では全くわからなかった。結局、日本へ帰ってから、グーグル・アースやここで撮った写真を見比べて、ここがユタ州のハリケーンという場所にあるJB’sレストランというアリゾナやユタ州を拠点としているレストランの支店であることを確信した。)夕食は、本来この日に宿泊するホテル付近で取る予定であったのであろうが、時間も時間であり、バスが出発する目処もたっていないので、結局ここのレストランで夕食を取ることになった。レストランのメニューは、日本でいえばデニーズにあるようなメニューで、ステーキやハンバーグのようなものがメインである。早くも、もうその手のものはいいやと思ったので、サーモンステーキを頼んだ。夕食を食べている最中、ツアーの人たちと会話していると、実はIさん夫妻が、私が当初申し込んだJTB旅物語のグランドキャニオン、モニュメントバレー、ヨセミテ国立公園を巡る4月30日から5月7日のツアーを申し込んでいたことを知って驚いた。私が当初申し込んだ時に先に書いたとおり、他に申し込んでいた人が2名しかいなかったが、まさかその2名がこの人たちだったとは・・・。結局我々と同じ理由で、このツアーに鞍替えしたのである。

夕食も済んでしばらく待った後、バスがやっとやって来た。外はもう真っ暗になっていて、時間は、この地区で午後8時を回っていた。エンジンが故障して止まってしまったバスも復活したようで動いていたが、違うバスも来ていた。我々としては、故障を起こしてしまったバスには不信感があったが、次の目的地に移動するのは、違う方のバスで安心した。このバスのドライバーもまたジェームスさんがやり、この後は目的地に向かってどこにも立ち寄らず、ただただ進むばかりだった。外は日が落ちていて、場所が場所なだけに外には基本的に照明も全くなく、ひたすら暗闇の中を突き進むという感じだった。バスはかなりのハイスピードで飛ばしているように感じて、故障で大幅にロスした時間をひたすら取り戻そうとしているような感じだった。レストランを出て3時間ほど経って、ようやく目的地のモニュメントバレー郊外のカイエンタにあるホテル(Hampton Inn of Kayenta)に着いた。ただ、レストランを出てからカイエンタに来るまでに時差の関係で時計が1時間余計に進んでしまうため、ホテルに到着したこちらの時間はもう午前0時を回っていた。バスから出て、ホテルへ入ろうとするととんでもない仕打ちが待ち受けていた。とにかくものすごい砂嵐なのである。このホテルの外観を写真に撮る余裕などとてもない。とにかく一刻も早くホテルの中へ駈け込むようにして入って行った。翌日の朝はモニュメントバレーを見に行くが、翌日もこんなだったらどうしようと思った。翌朝は日の出前に出発して、モニュメントバレーでの日の出を鑑賞する予定で、5時前には起きなければならない。ホテルに入ったのが0時過ぎで何だかんだやっていて寝るのは2時近くになってしまったため、睡眠時間は3時間ほどしか取れなくなってしまった。それでもとにかく翌日に備えて最小限のことのみやって寝ることにした。



3日目(4月30日) モニュメントバレーからグランドキャニオンへ

バスから見える奇妙な岩々

ジープへ乗り換える



少ない睡眠を取って、日の出のモニュメントバレー鑑賞に向けて5時前に起き、5時半にホテルを出た。ホテルを出てバスに乗る間は、前夜と同じですごい風が相変わらず吹いていて、モニュメントバレー内は吹きさらしのジープで回ると言うし、一体どうなることやらと思った。バスに乗って目的地に近づいてくると、まだ日の出前のかすかな光に照らされて、奇妙な形の岩がたくさん見られるようになり、モニュメントバレーが近づいてきたんだなと実感してきた。目的地へ行く30分ほどの間、現地係員のFさんから、このあたり地区の先住民であるナバホ族の話や、このモニュメントバレーがナバホ居留地のものであるため国立公園にはなっておらず、世界遺産にもなっていないなどの話をしてくれた。モニュメントバレーの観光案内所に着くと、バスから降り、ジープへ乗り換えた。運転手はナバホの人だった。服装は、防寒と砂煙対策のため、みんなレインコートなどの重装備となった。ここからモニュメントバーに行くまで、途中までは舗装道路があるが、そのうち舗装でなくなり、ゴツゴツとした石ころだらけの道となり、急斜面も多くて揺れも激しく、これならここへジープで来るのも納得した。とても乗用車じゃここへは来れないと思った。道は険しくはなったが、幸いなことに風はあるものの、ホテル付近で吹いていた強風よりははるかに弱かったので、非常に助かった。


モニュメントバレーには、モニュメントバレーの中でも最も有名な風景のひとつを見るためのビジター・センターがあるとのことであるが、ナバホの運転手がもっと良い所があるとのことで、独自の場所に連れて行ってくれた。そしてその地点に着くと、確かにその場所から見る風景は絶景だった。本やテレビで確かに見たことがある風景がそこにはあった。奇妙な形をした大きな同じような岩が、手前と奥に2つ並んでいて、それがかなり間近に見えるのである。係員のFさんは、この岩の形がちょうど親指が突き出た手袋を左右対称に上に向けたように見えるため、左の岩が左手袋、右の岩が右手袋と呼ばれていると説明してくれた。バスからも奇妙な岩が見えたりしていたが、やはりここはわざわざ観光名所となっているだけあって、それらとは全く比較にならない素晴らしさだった。とにかく奇妙ではあるが形が美しく洗練されているという感じである。今回、日の出に合わせてモニュメントバレーを見に来たのは、この2つの岩の間から出てくる日の出のシーンを見るためであった。そしてこの2つの岩の間から日が昇ってきたが、本当に素晴らしかった。 しばらくこの手袋岩を楽しんだ後、ジープに乗って次の場所へ移動しようとすると、近くにワンちゃんがやって来た。人懐っこいイヌだが、ナバホの人に飼われているイヌのようだ。それにしても、こうやって移動しながらモニュメントバレーの風景を眺めていると、赤茶けた岩や石がゴロゴロしていて、どこかの風景に似ているなと思ったら、昔、惑星探査機ボイジャーが火星に到着した時に送られてきた写真を思い出した。

そのうち、今度は小屋がある場所に着いたが、ここはジョン・フォード・ポイントと呼ばれる地点で、映画監督のジョン・フォードが有名な映画「駅馬車」を撮影した場所である。ここからの風景もまた素晴らしかった。それからビックリしたのは、モニュメントバレーに入ってから我々以外誰一人として人と遭遇しなくて、このジョン・フォード・ポイントで初めて他人と遭遇したのだが、それが他の日本人旅行ツアーの団体だったのである。こんな遠くへ来て初めて遭遇するのが日本人の団体同士であるというのも、何だかいかにも日本人らしいなと思った。その後は、丘の上からモニュメントバレーの横に広がる平原を眺められるポイントへも行ったが、ここは今度はまるでアフリカの大平原を思わせる風景だった。こうやって、世にも奇妙であるが素晴らしいモニュメントバレーの風景を一通り眺めた後、観光案内所へ戻ったが、途中、舗装道路へ入ったら、またものすごい強風が襲ってきた。それを考えると、モニュメントバレー内は強風もなく、天候には本当に恵まれていた。この後、カイエンタのホテルで朝食を取った後、今度はアンテロープキャニオンへ向かった。本来は前日の昼過ぎに行く予定であった場所であるが、バスのトラブルによりこの予定は吹き飛んでしまった。もう、アンテロープキャニオン訪問の予定はなくなってしまったと思っていただけに驚いた。実は、アンテロープキャニオンは、モニュメントバレーとグランドキャニオンの間に位置していたために、前日ほとんど予定が潰れてしまったにも関わらず、このようなスケジュールが可能になったのである。

手袋岩の間から見える日の出


手袋岩の近くにいたワンちゃん ジープから見える三姉妹と呼ばれる岩 ジョンフォードポイントから見える風景 ジョンフォードポイントにある小屋

モニュメントバレーの横に広がる平原
そしてこの日の2番目の訪問地であるアンテロープキャニオンへ着いた。正直に言うと、アンテロープキャニオンという場所はこのツアーに参加するまで全く知らなかった。だからこのツアーの訪問地の中でも一番関心がなかったのであるが、来てみてビックリした。アンテロープキャニオンは、地表にできた割れ目という形で存在し、その中に入っていくのだが、これまた、今まで見たこともないような神秘的な風景だった。例えると、割れ目の壁面が、まるで陶器を焼く前の粘土で形作った器の側面といった感じで、モニュメントバレーのような広大な大自然とは別の、神秘的な狭い空間に囲まれた中を歩いて行き、非日常空間を味わえる。日本ではあまり知られていない場所のようであるが、本当に来てみる価値がある場所である。ここは対象物に直接触れることができるだけに、下手をすると落書きだらけになる恐れもある場所であるが、落書きがほとんど無かったのには感心した(ただ、残念だがやはりごく一部落書きは存在した)。それから、アンテロープキャニオンを見終って地上に出てバスへ戻る途中、トカゲを見つけた。全長20〜30センチほどで、日本で見かけるトカゲよりは一回り大きく全身に水玉模様があり、こんなトカゲは日本では見たことがなく、やはりこういうところからも外国へ来たんだと感じることができた。ちなみに、アンテロープキャニオンは昔からフランス人に人気のある場所であったようであるが、1997年に襲った鉄砲水により、フランス人を中心とした多くの旅行者が犠牲になり、アンテロープキャニオンの入口には犠牲になった彼らの慰霊碑がある。

料金所 アンテロープキャニオンに入るところ アンテロープキャニオンに入ったところ

アンテロープキャニオンの中の風景 日本では見られないトカゲ 鉄砲水の犠牲になった人たちの慰霊碑
アンテロープキャニオンを出た後は、グランドキャニオンを目指してバスは進んで行った。周りに見える風景は、基本的に草木がまばらにしか見えない半砂漠状態の風景だった。半砂漠状態の風景はずっと続いていたが、そのうちバスのはるか前方に雲のようなものが見えた。雨など全く降っていないのに何だろうと思っていたら、そのうち、バスの窓の外に見える風景もぼやけてきた。そしてそのうち、外の風景も真っ白になってきて、ほとんど至近距離しか見えなくなってしまった。あのバスの前方に見えたものは、砂嵐を遠くから見たものだったのである。砂嵐の中をバスが進んでいる最中、バスの窓を全て締め切っているにもかかわらず、車内に砂の匂いが充満してきた。本当に、相当過酷な環境の中を移動しているのだということがわかった。昔、アリゾナ砂漠という言葉を聞いたことがあったが、この辺りに見える風景には僅かに草木があり、サハラ砂漠のような草木も何もない、いわゆる正真正銘の砂漠というイメージからはかけ離れていて、アリゾナ砂漠という言葉にもあまり実感は湧かなかったが、この砂嵐の体験で、その言葉も実感できた。この砂嵐にバスが突入してから何分か経っても、砂嵐が全く途切れる気配がなかったが、そのうち、この日の昼食を取る場所であるキャメロン・トレーディング・ポストというところに着いた。ここには、みやげ物屋やレストラン、ホテルなどが入っている。さすがにここではもう砂嵐はなかったが、風の強さは物凄かった。ここからグランドキャニオンまではもう30分程とのことであったが、このままグランドキャニオンまでこんな感じだったらどうしようと思った。

移動中遭遇した砂嵐

キャメロン・トレーディング・ポスト

ナバホ・タコス

キャメロン・トレーディング・ポストで売っているのは、主にネイティブ・アメリカン(いわゆる昔いわれていたインディアン)の工芸品が中心である。今までニューヨークやボストンへ行って、マグカップの類は買い過ぎてしまったので、ラスベガスでは実はほとんど買いたいものがなかったのだが、ネイティブ・アメリカンの工芸品は初めてだったので、小さ目のものを買った。その後は、昼食にここの名物であるナバホ・タコスなるものが出てきた。大き目の皿いっぱいに、パンかナンみたいなものが敷いてあり、その上に豆や野菜、チーズなどが載っている。見ただけでもうお腹一杯になりそうな量だったが、ふんだんに油を使っているアメリカ料理と違い油はほとんどなく、意外とさっぱりして食べやすかった。(実は父親がいらないと言ってきたので、2人分平らげてしまった。)キャメロン・トレーディング・ポストで昼食を取った後は、グランドキャニオンへ向かって行った。すると、じきに道路の向うに巨大な裂け目が見えてきた。まさにグランドキャニオンのもうすぐそばまで来ているんだということが実感してきた。それからこの辺に来て、周囲にかなり樹木が見られるようになってきた。キャメロンまでは半砂漠状態で、草木がまばらに存在する程度であったし、グランドキャニオンというと岩が剥き出しで、草木のイメージがなかっただけに、これは意外だった。そして、グランドキャニオンの最初の鑑賞地点へ着いた。最初に着いた地点はデザート・ビュー(Desert View)というポイントである。

バスから降りて、グランドキャニオンが見える方面に歩いて行くと、ついに自分の目の前の視界にグランドキャニオン一面の風景が広がった。パーッと目の前の視界に入ってきたグランドキャニオンは、やはり凄い迫力だった。ここへ来るまでに、バスの外に地表の大きな裂け目が見えたが、グランドキャニオンはこれのスケールを大きくしたようなのものとばかり思っていたが、とんでもなかった。裂け目というにはあまりにも大きな岩肌が剥き出しの大きな窪みが目の前に広がっていて、その中に削られたような岩の突起が敷き詰められているという感じ。そして、グランドキャニオンの向こうを眺めると、一面ずっと水平線になっていた。これは、私が当初想像していたのとはちょっと違うイメージだったが、とにかく迫力は凄い。そもそもこのツアーに参加した根本の理由は、一度はグランドキャニオンをこの目で見てみたいということであったが、時に、当初あこがれていたものが実物を見てみると、そのちゃちさなどから期待を裏切られることもあるが、グランドキャニオンに関しては、そんなことはなかった。デザート・ビューは、円筒形の石造りの展望塔があるが特徴で、そこにも登り、景色を堪能した。

移動中見えた巨大な裂け目 デザート・ビューへ行くところ

デザート・ビューから見たグランドキャニオン 塔の外観 塔の中の様子
デザート・ビューを出た後は、他にグランドキャニオンの2つのポイントを回った。グランドキャニオンのポイントとポイントを移動する間には樹木がうっそうと繁り、ここからそう遠くないところまでずっと砂漠があったなんて信じられないくらいだ。1つ目のグランドビュー・ポイント(Grandview Point)という地点を回った後、2つ目がマーサ・ポイント(Mather Point)という地点に来た。ここは、グランドキャニオンでは一番メジャーなポイントである。展望地点のすぐ下を見ると切り立った崖になっており、グランドキャニオンの迫力を間近に感じることができる(高所恐怖症の方は注意)。また見た感じ、やはり渓谷(Caynon)の形が一番バランスが取れているようには感じた。それから一見水の全くない渓谷であるが、よく見てみると遠くに見える渓谷の底に結構大きな川が流れていて、これがグランドキャニオン川下りで有名なコロラド川なのかなと思った。実はこのマーサ・ポイントは、翌日もう一回、ここで朝日を見るために訪れることになっている。我々が回ったのはグランドキャニオンの中でもノース・リム(South Rim)と呼ばれるエリアに属しているポイントである。最近グランドキャニオンといえば、昨年できた崖の上から空中にU字型の通路が突き出たスカイウォークが話題であるが、これはここから100kmほど離れたウエスト・リム(West Rim)というエリアにあり、今回のツアーではそこには寄る予定はない。マーサ・ポイントを出て、この日の観光は終わり。

マーサ・ポイントから見たグランドキャニオン

グランドキャニオンをバックに両親と マーサ・ポイントの崖にある展望台
(転落したことを想像すると恐ろしい)
岩の間に僅かに見えるコロラド川

この後はこの日宿泊するホテル(Quality Inn & Suites Canyon Plaza)へ。ホテルは一見するとそれ程大きくは見えないが、宿泊する部屋は入口とは別の棟にあったので、全体を合わせると実は結構大きいのかもしれない。入口がある建物から別の棟へ移動する途中に室内プールがあり、それがものすごく塩素臭かった。一旦荷物を部屋に置いてから、部屋にベランダがついているのでベランダへ出て外を眺めたが、回りには木が沢山あり、標高2200mぐらいあるのでラスベガスと違って涼しく、さわやかだった。部屋で少し休んだ後、夕食へ行った。夕食はホテルの中にある食堂で、ここもまたバフェ形式だ。一通り料理を皿に取って席に着いた後、ウェイターの人が、飲み物のオーダーに来たが、「サッポロクロラベル?」と聞いてきたので、ビックリした。こんなセリフが出るなんて、やはりここにも相当日本人が訪れるんだなと実感した。夕食を取った後は近くのコンビニへ寄って少し買物をした。ホテルの近くにグランドキャニオンの様子を3D映像で紹介する映画館もあるとのことだったが、もうかなり疲れていたのと、翌朝はまた日の出前の起床で早いので、そのまま部屋へ戻って寝ることにした。

グランドキャニオンで宿泊したホテル

夕食(中央のビンはサッポロ黒ラベル)



4日目(5月1日) 夜明けのグランドキャニオン&ラスベガスへ戻り

前日のモニュメントバレーに続いて、グランドキャニオンのこの日も、夜明け前の景色を見るために早起きした。もっとも、日本の地球の裏側であるアメリカ大陸に来たときは、時差ぼけのために嫌でも夜明け前に目が覚めてしまうので、思ったほど辛くはない。暗がりの中バスに乗り込み、マーサ・ポイントへ向かって行った。添乗員のSさんによると、標高2000mを超えているグランドキャニオンの夜明け前は気温が0℃以下になるとのことだったので、使い捨てカイロを体中に張り巡らせるなど防寒対策は万全にしてグランドキャニオンの日の出鑑賞に臨んだ。マーサ・ポイントでの最適鑑賞地点である崖の淵は、既に沢山の人で占拠されていた。しょうがないから、そこから一歩引いた地点から、日の出を待つことにした。この間確かに寒かったが、持参した温度計付き時計を見ると6℃であり、Sさんが言っていたように氷点下にはなっておらず、極端に寒くはなかった。日の出を待っていると、我々のツアーのメンバー以外にも日本語をしゃべっている人たちがいて、やはりどこにも日本人観光客がいるんだなと、ここでも感じた。それから、我々がいる崖の上は周囲に手すりがあるので一応安全(?)であるが、横に見える崖に目をやると、周囲に手すりも何もない崖の上に立って日の出を待っている人達もいた。(あんな所に立つなんて、怖くて信じられません。)そして、朝日が前方に見える台形状の岩の上から顔を出してきた。これもまた素晴らしい景色だったが、最適鑑賞地点である崖の淵が占拠されていてそこから見られなかったせいか、モニュメントバレーから見た風景に比べてちょっと物足りなかった。

 

マーサポイントでの日の出の様子

夜明け前のグランドキャニオン

日の出を見に集まった人たち

大胆にも柵のない崖の上に集まる人たち

日の出の様子


マーサ・ポイントで日の出を見た後はホテルへ戻って朝食を取り、ブライト・エンジェル・ロッジ(Bright Angel Lodge)へ向かった。ブライト・エンジェル・ロッジは、このツアーで回る最後のグランドキャニオン鑑賞ポイントである。ここのすぐそばにはグランドキャニオン・レイルロードという鉄道の終着駅であるグランドキャニオン駅があり、他の鑑賞ポイントとはちょっと違う。ここの特徴は、コンドルを見られるかもしれないことだという。ただし、なぜかここのカラスはコンドルの飛び方を真似するので、コンドルだと思ったらガッカリすることも多いという。鑑賞ポイントへは建物(この建物がブライト・エンジェル・ロッジ)を抜けて到着した。ここの鑑賞ポイントは、崖の淵に石垣が造られており、そこから景色を眺めるようになっている。空を見ると、早速コンドルのような鳥が飛んでいたが、係員のFさんによると、これはカラスとのことである。この後自由行動になったが、ここがツアー最後のグランドキャニオンになると思って、うろちょろ歩き回るよりはしっかりとグランドキャニオンの景色を目に焼き付けようと思って、一人でじっくりと眺めていた。最後、集合場所に戻る直前に野生のリスを見つけたが、結局コンドルは見ることができなかった。

 

ブライト・エンジェル・ロッジでの様子

ブライト・エンジェル・ロッジ

ブライト・エンジェル・ロッジ
から見えるグランドキャニオン

グランドキャニオンに続く小道

野生のリス


グランドキャニオンを発つと、次の目的地までは2時間ほどある。この間の風景は、前日のモニュメントバレーからグランドキャニオンまでの移動のような半砂漠状態という感じではなかったが、それでも高い木立は全くなく、いかにも乾燥しているという風景が続いていた。その後、ルート66に入った。ルート66というのは、私はこのツアーに申し込むまで知らなかったが、かなり有名な道のようで、私の両親も昔アメリカのドラマでやっていたと言っていた。そして次の目的地である、ルート66沿いのセリグマンにあるエンジェルス・バーバーショップ(現地係員のFさんは、バーバーストアーと言ってたが、ネット等を調べるとバーバーショップが正しいようである)というみやげ物屋に着いた。この建物や、この周囲の建物を見渡すと、いかにも古き良き時代の1950〜60年代あたりのアメリカを思わせるたたずまいである。バーバー・ショップに入ると、カーボーイハットやポロシャツ、アリゾナ周辺の自動車のナンバープレートなどが売られていた。また、ここには日本からも有名人が訪れるらしく、タレントの中村雅俊さんや辺見えみりさんらの写真もあった。せっかく来たんだし何か買おうといろいろ探したが、結局「ROUTE 66」と印字された自動車のナンバープレートを買った。このとき、レジの人(白人の方)に英語で値段を尋ねたが、なんと日本語で返事が返ってきた。ここにも相当日本人客が訪れることが伺うことができた。

エンジェルス・バーバーショップ

バーバーショップの店内

昼食で食べたハンバーガー

エンジェルズ・バーバーショップを出ると、国道アリゾナ州のキングマンというところにあるステーキハウスで名物のハンバーガーの昼食を取ることになっている。途中、貨物列車が横を通ったが、その長さがものすごいのである。日本でも貨物列車は普通の列車に比べて長いが、これが比較にならないぐらい長い。正直言って何両つながっているかなんて数え切れない。おおげさかもしれないが、100両ぐらいはあるような気がした。そしてステーキハウスへ着いた。建物の様子は、いかにもアメリカ西部という感じである。昼食として出てきたのは、ハンバーガーとフライドポテトである。出てきたハンバーガーは、(当然マクドナルドなどのものより)大きくハンバーグも厚かったが、味はまあ、普通のハンバーガーといった感じで、特にものすごくおいしいということもなかった。昼食を取った後は、ラスベガスへ向かって進んだ。アリゾナ州とラスベガスのあるネバダ州の境界にはコロラド川があり、その上に掛かっている橋を渡ってネバダ州に入って行った。コロラド川は青々としていて水が豊かであり、これがあのグランドキャニオンから流れてきた川なんだと思うと、ちょっと感慨深くなった。ネバダ州側にはカジノが見えるが、ネバダ州はカジノ合法だからでそうである。

プラネットハリウッド

夕食(和食とシーフードが多い)

そして再びラスベガスへ入った。今度宿泊するホテルはプラネットハリウッド(Planet Hollywood、略してph;何だかヒューレットパッカードのhpと間違えそう)というホテルで、初日のリビエラホテルはラスベガスでもちょっと北の外れに位置していて、ホテルもちょっと古めかしい感じがしたが、今度のプラネットハリウッドは現代的なかなり大きなホテルだった。ホテルに着くと、これでジェームスさん運転のバスの旅も最後だ。2日目のエンジントラブルなどアクシデントもあったが、なんだか親しみを感じたジェームスさんと最後言葉を交わしたかったので、「See you again sometime(またいつか、お会いしましょう).」と言って、ジェームスさんと握手を交わしてから、バスを降りた。バスから降りた後、ホテルのロビーへ入ると、日本人の男性2人が待っていた。どうやらJTBの関係者のようだ。皆の前で、2日目のバストラブルによる長時間の立ち往生について謝罪され、JTBからの謝罪の文書とお詫びの印としてラスベガスの記念タイルを差し出された。また、SさんがJTB関係者に連絡を取って、今人気のショー集団であるシルクドゥ・ソレイユの公演の中でも人気の「カー」のチケットをツアーのメンバー全16人分を確保したというので、この日の夜はこの公演が行なわれるMGMグランド(MGM Grand)という、ラスベガスの中でも有名なホテルへ見に行くことになった。ちなみに、このチケット代は1枚105ドルとのことであるが、バストラブルへの償いとしてこれらの費用はJTB側の負担である。今夜の予定は決まったが、その前に自分の部屋へ荷物を置き、その後夕食へ向かった。外へ行くことも考えたが、結局初日のリビエラホテルの時と同じように宿泊しているホテルにあるバフェへ行くことにした。バフェへ行くためにはまずカジノの間を通らないと行けないようになっているが、リビエラホテルよりも更に派手なカジノの間を通ってバフェへ着いた。ここのバフェはリビエラホテルのバフェの2倍ほどする38ドルだったが、その値段のせいか、リビエラホテルのものよりもかなりメニューが豊富だった。寿司、中華、イタリアン、シーフード、サラダ等、取りたいものを一通り皿に取った後、中央アジアのジャンボ串焼きが目に入ったが、もうそれまでに食べ物を沢山取りすぎていたのでもうこれ以上食べられないと思って、これは諦めた。ちょっと残念。食事を済ませた後は、せっかくラスベガスへ来たのだから、ちょっとカジノをやってみようということになった。近くにある適当なスロットマシーンを見つけて、チャレンジしてみた。座ったマシーンの最低掛け金は1ドルで、(勇気がないので当然)1ドルでやってみた。するとスロットがガラガラ回った後止まったが、どういうタイミングで何をしたらよいのかよくわからなかった。何だかわからなかったので、もう1度1ドルでトライしてみたが、これも何だかわからず、何だかわからないまま日本円にして100円、200円と、どんどんなくなってしまうことがバカバカしくなり、これで打ち切った。たったこれだけで怖気づいてしまうなんて、つくづく自分の性格はギャンブルに向かないと思った。

ストリップ通りの景色

ラスベガスの街の様子

ニューヨークニューヨークの横側

ニューヨークニューヨーク
(まるでマンハッタンのよう)


その後は、そこまで近いので、ラスベガスへ来た以上ぜひ見たいと思っていたニューヨークニューヨークというホテルを見に行くことにした。ニューヨークニューヨークへ行く途中、ストリップ通りを通って向かうが、ここはラスベガスの中心街であるだけあって、さすがにすごく賑わっていて、建物のネオンもきらびやかだ。途中、セブンイレブンがあったので入ってちょっと様子を見てみたが、当然のことながらおにぎりなどは全くなく、日本のセブンイレブンとは売っているものが全く違った。そしてニューヨークニューヨークの前へ着いた。ニューヨークニューヨークというホテルは、自由の女神、エンパイアーステートビルをはじめとするマンハッタンのビル街、ニューヨーク市立図書館と思われる建物など、ニューヨークのマンハッタンにある象徴的な建造物を模した建物を凝集したホテルである。スケールは当然のことながら本場のマンハッタンそのものには劣るが、しかし一瞬ニューヨークにいるのではと錯覚する(ちょっと大げさだが)ほど、見事である。しかし、ニューヨークニューヨークは、ニューヨークという街のミニチュアをラスベガスに造ったようなものなので、なんかオモチャ見たいにも見えるので、ここに人が宿泊していると思うと、ちょっと不思議な感じがする。ラスベガスにはもう一つ名物のルクソールというエジプトのピラミッドとスフィンクスを模したホテルがあるが、こちらは時間がなくて見に行くことができなかった。実は、シルクドゥ・ソレイユの公演があるMGMグランドはニューヨークニューヨークのすぐ横にあったのであるが、プラネットハリウッドのロビーに集合してみんなと一緒に移動することになっていたので、二度手間にはなるが一度戻った。

MGMグランド

MGMグランドのライオン
(本当に人によくなついている)

その後、プラネットハリウッドでみなで集合したのち、元来た道を再び引き返して改めてMGMグランドへ到着した。MGMグランドは、表に大きなライオンの黄金像があるのが特徴である。門をくぐると、ここもまた一面カジノだった。ラスベガスのホテルというのは、目的地へ移動するまでに必ずカジノを通るような構造になっていて、そこでお金を落としてもらおうという狙いで造られているといことが、ラスベガスのいくつかのホテルを経験してみてよくわかった。それにしてもMGMグランドは宿泊部屋が5000室もある巨大なホテルだけあって、カジノの広さも半端じゃない。目的の公演会場までかなりあるが、その途中で面白い物に遭遇した。ガラス張りの檻の中に、雄ライオンが一頭いるのである。ホテルの表に大きなライオンの黄金像があった理由はこれなんだなと思った。しかし、檻の中にいるライオンはただ眠っているばかりで全く面白くない。ちょっと写真を撮ったらこの場を後にしようかなと思い始めたところ、突然この雄ライオンが立ち上がり2階部分へ上がって行った。するとなんとその2階部分に大柄な人間の男性が2人いるではないか。そしてこのライオンはその男性2人の近くへ擦り寄って行ったのである。この雄ライオンはもう立派な成獣であるが、男性たちはこのライオンをなぜなぜしたりと全く恐れる様子はなく、本当によく慣れているのである。こんなシーンは今まで一度も見たことがなかっただけに、なんだか思わぬ拾い物をしたという感じだ。

シルクドゥ・ソレイユの公演会場

ライオンをしばらく見た後、シルクドゥ・ソレイユの公演会場へ着いた。やはり人気の公演であるだけに、観客がたくさん訪れている。会場内に入り座席に着くと、舞台の脇には炎が立ち上がる仕掛けもあり、本番も本当に凄いんだろうとワクワクしてきたが、と同時に寝不足のせいか、睡魔が襲ってきて、公演が始まる前にうとうとして一瞬目を閉じてしまっていた。そしてカーの公演が始まった。公演の内容は、舞台が傾いてそこの上でシルクドゥ・ソレイユのメンバーがショーを繰り広げるなど、すごくダイナミックなものなのであるが、なにぶん睡魔が襲ってきているので、気がつくと目を閉じてしまっている。チケット代105ドルと本番でのこんな公演を見る機会は滅多にないということを必死に言い聞かせ、どうにか目を開けていようと頑張ったが無駄な努力だった。結局公演の半分は見逃していたと思う。我々が座った座席が舞台から少し離れた舞台を見下げるような位置だったので、ダイナミックな舞台仕掛けもなかなかダイレクトに伝わってきにくいというのはあったかと思う。もし舞台の間近にいたなら傾いた舞台を見上げるような形になり、迫力もダイレクトに伝わってきて、寝てしまうことはなかったかもしれない。それにしても15年前の1993年にニューヨークマラソンに出場しにニューヨークへ行った時も、ミュージカルの本場ブロードウェイでキャッツを見る機会があったが、このときも睡魔との戦いで半分は寝てしまっていた。どうも私にはこういうショーは合っていないのかもしれない。公演が終わった後は本当にもったいないことをしたと悔やんだが、元々このショーは自分には縁がなかったものだったんだと自分自身を納得させるように言い聞かせた。 ショーが終わってホテルの自分の部屋に帰ったときは、時間はもう夜中の0時を過ぎていた。ここのホテルの風呂はアメリカには珍しく浴槽が深かったので、久々に風呂でゆっくりできるかと思っていたが、翌日ラスベガスからバンクーバーへ発つ早朝の飛行機に乗るために、モーニングコールは3時15分となっており、これ以上睡眠時間を削れないと思って風呂に入るのはやめてそのまますぐ寝た。


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