2001年ニューヨークマラソン参加&滞在日記
2001.12.18
今回のニューヨークマラソンは、会社から与えられた入社○年目の長期休暇を利用して参加した。私の会社では入社○年目の人間に長期休暇が与えられるのであるが、以前から私は迷わず、まずは海外マラソンへ参加しようと考えていた。ニューヨークマラソンは8年前の1993年に一度参加した(このときは会社でのこの様な事情ではなく、単に個人的に有給休暇を取って参加したもの)が、その時の印象が素晴らしく、同じ場所へ2度行くのはどうかとも考えたが、やはりあの時の体験が忘れ難く結局またニューヨークマラソンに落ち着いてしまった。
|
テロで炎上するWTC |
ただ、今回の参加は実は予期しなかった2つのピンチに見舞われた。初めのピンチは、大会に申し込もうとしたときである。4月に申し込もうとあるツアー会社に電話したのだが、既に何十人ものキャンセル待ちとのこと。そして他のツアー会社へたくさんかけたのだが、ことごとく同じ答えであった。前回参加したときは余裕で申し込め、今回は日本経済が悪化の一方でリストラに失業率増加の時勢である。こんな道楽に金をつぎ込める人はおらず余裕で申し込めるかと思っていたのに、予想に反して物凄い人気である。話によると、ここ3年余りでニューヨークマラソンの人気がうなぎ上りになったとのことである。この時点で一度は大会参加を諦めた。そして会社の長期休暇をやはり日本人定番のホノルルマラソンにしようか、それとも単なる海外旅行にしようか検討し始めていた。幸い、夏場にあるツアー会社に追加枠が出来たことを知り、運良く申し込むことができた。その後は、ニューヨークマラソン本番が待ち遠しくて仕方なかったが、2つめのピンチが今も忘れもしない9月11日。ニューヨークの世界貿易センター (WTC)ツインビル2棟にともに旅客機が突っ込むという、未だかつてない最悪のテロに見舞われた。貿易センタービルは2棟とも崩壊し犠牲者は数千人、マンハッタンは煙に包まれ、まさにアメリカ建国以来の大惨事。私自身はそれでも2ヶ月も後のニューヨークマラソンは開催されるだろうといたって楽観的だったのであるが、周りの人間に聞くと10人中10人が中止だろうとの答え。そういう周りの雰囲気に私も徐々に洗脳され、ニューヨークマラソンも中止だろうという考えに染まっていった。幸い今度 は9月下旬のジュリアーニ・ニューヨーク市長の宣言により開催されることが決まった。
![]() |
コースマップ |
マラソンに参加できることは決まり、すぐにでもマラソンへ向けて練習を開始すればよかったのだが、10月中旬に800mの試合を入れており、こちらもおろそかにしたくなかったので、とにかくそれまでは中距離の練習一辺倒にし、その後の3週間の走り込みでマラソンを完走しようと考えていた。これは元々ニューヨークマラソンはタイムが目的ではなく、あくまでも大会を楽しもうとしたこと、前回ニューヨークマラソンへ参加したときも2週間前まで800mの練習をしていて、それで3時間37分で走れたことが理由であった。今考えてみると、
今年は昨年末から良くならない左足足底筋膜炎でほとんどまともに走れなかったので、過去の蓄積も全く無く、この計画はやはり無謀であったが・・・。マラソンの練習を始めてからは、とにかく完走することだけが目標だったので、短期間の練習で最も効果的な完走能力をつける練習を行う必要がある。過去の経験から、3時間走を行えばとりあえず完走する脚が出来ると実感していたので、マラソン本番の12日前に行った。ところがこの練習が練習不足の脚にはかなり負担だったのか右膝を痛めてしまった。すぐ良くなる一過性のものだと思っていたが、その後の練習のたびいつも痛んできて、ついにマラソン本番5日前からランニングを一切中止することにした。従って、マラソンを楽しみたいと思いつつも、実は膝痛のためマラソン完走へかなり不安を抱いてのマラソン参加となった。
ちなみに今回はカメラを持ってマラソンを走ることにした。タイムを目指している人からすればものすごく不謹慎な大会参加の仕方かもしれないが、以前私が東京湾横断アクアライン開通記念ハーフマラソンへ参加したときに、参加者の3分の1ぐらいがカメラを持って走っていたのをを見て、そのような参加者が多数いることに驚くとともに、こういう大会の参加の仕方もあるんだなと目から鱗が落ちる思いをした。(800mで自己記録を目指したときは、練習、レースとも心身の極限まで追い込で、これとは対極のことをしたと自負し
ています。だから、私がいつもこのような遊び半分の気分で大会に参加している訳ではなく、やるときはとことんやります!)それからは、大会参加の仕方をひとつの枠にはめず、場合によってはこの様な参加の仕方もしようと考えていた。それを実行したのが今回のニューヨークマラソンという訳である。
あと忘れてはならないのが、ニューヨークマラソン直前でのアメリカでの炭疽菌騒動だ。あのテロ以来ただでさえ日本から海外、特にアメリカへ渡航する人間が激減し、つぶれる旅行会社が出る始末。私の会社でもアメリカは出張禁止国になってしまった。そしてそれに輪をかけてこの騒動、すなわちアメリカ東部の各都市で炭疽菌による犠牲者が出て、ついにはニューヨークでも死者が出てしまったことである。職場の人間の私の扱い方は、まさに私が戦場へ向かうかのような感じだった。そんなこんなで、私も正直言ってテロのことはかなり恐れながらのニューヨーク出発だった。
11月1(木)
いよいよ出発の日。海外へ行ったのは前回のニューヨークマラソンが初めてで、それ以来の海外渡航もまたニューヨークになってしまった。成田空港に着いてツアーの団体チェックをしたが、ここで荷物検査があった。私は昨年末から左足の足底筋膜炎を患っていて、良くなったものの用心してテーピングをしようとテープを切るハサミと、足底筋の患部にお灸をするためにライター持ち込んだが、それが検査に引っかかってしまった。ハサミはスーツケースに入れて運ばれるのを許可され、ライターは身に着けるように言われた。その後搭乗口へ向かったが、飛行機に乗るまで2回ぐらい荷物検査をさせられた。やはり先日のテロの影響がかなり響いていると実感した。
飛行機はノースウェストで、久しぶりの外国系の航空機に乗り、特に機内食の時はネイティブの英語を話しかけられるので少し緊張した。しかし、どんどん外国へ行くんだなと実感してきた。成田を出発してから日本時間の午後4時で既に日が暮れて、午後11時には日が明けてきたのにはビックリした。日本からニューヨークまでは地球の自転の逆方向へ進んでいる訳で、理屈では理解できるものの実際このような体験をすると本当に地球が丸いんだと実感させられる。ニューヨークの着陸
空港であるジョン・F・テネディ空港へは12時間のフライトの末着いた。12時間は本当に長い。しかし帰りが14時間であることを考えると、更に気が重くなる。それにしても日本を発ったのが11月1日の午後3時でニューヨークが11月1日の午後1時である。いくら日本時間とアメリカ東部時間の違いがあるとはいえ、1回過ごした時間を再び経験するというのは妙な気分である。空港に着いて、米国内に入って初めてツアーの仲間全員が一堂に会した。それまでツアーにどんな人が参加するのか名前すら知らなかった。8年前に比べると、かなりラフなツアーだ。ツアーはデラックスツアーとスタンダードツアーという2つのグループに分かれており、私はスタンダードの方で、そちらと同行した。
JFK空港の建物の外に出て、ニューヨークの外気にふれると、日本と同じようにさほど寒くない。年によっては物凄く寒いときもあると聞いて防寒の用意も万全で来たが、今回は必要ないかもしれない。空港を出てマイクロバスでマンハッタンへ向かうと、周りの建物は全て横文字(アルファベット)ばかりで、アメリカへ来たんだと実感した。向かうさなかに見えるマンハッタン島に貿易センタービルの姿が見えないのは、早くもテロが現実のものであったと感じさせた。
![]() |
マラソン受付会場 |
マンハッタンに入ってからは、街並み以上にそこで生活している人種構成が日本と全く違うことに改めて気付き、やはり異国へ来たんだと強く感じた。現地に入ってから最初にしたことはマラソンの参加手続きである。8年前と違って驚かされたのは、手荷物検査をさせられたことだ。やはりここにもテロの影響が大きく出ている。このマラソンも他の多くのマラソンと同じようにRCチップを採用しているが、ほとんどの選手がNYCマラソン仕様のチップを使っており、思わず記念に貰いたい(希望すれば、金を払って買える)ものだった。私はオウンチップで参加したがすごく損したような気分になった。それから、日本から持ってきたオウンチップが本当にニューヨークで使えるのか密かに心配していたのだが、チェックしたときに無事アルファベットで自分の名前がモニターに表示されて安心した。
ルーズベルトホテル |
マラソンの参加手続きが終了するとホテルへ着いた、今回のホテルはルーズベルトホテルというホテルで、前回泊まったヒルトンホテルに比べると、はっきり言ってかなりぼろいホテルだった。カードの鍵をもらって自分の部屋へ行ったが、ここでトラブルが・・・。何回やっても部屋のドアが開かず、どうにもならないからフロントへ、ドアが開くようにしてくれるよう訴えに行くことにした。実はニューヨークまで来るまでに、機内やマラソン手続き会場でのやり取りで、自分の英会話力が本当に貧弱であることを改めて思い知らされて少々自信喪失気味になっていて、英語でのやりとりにかなり不安を覚えていたのだが、しかし部屋に入れないことにはどうしようもない。意を決して(少々大げさ?)1階フロントへ向かった。幸いというか、この場合は相手から聞かれて何かを答えるのではなく、あらかじめ自分で聞こうとする内容を考えられるので、フロントへ言うせりふを考えながら向かった。フロントへは「I cannot open the door using this card.」と言ったと思うが、一回で通じたようで、その後パスポートの提示を求められ、身元確認後に再登録してもらえ、無事部屋へ入ることができた。 部屋に入ると、この部屋にはテレビがなかった。隣の部屋からはガンガンテレビの音が聞こえてくるというのに・・・。私が申し込んだツアーは追加枠だったので、ひょっとしたら余った部屋だったのかもしれない。とにかく、この日は飛行機内でも良く眠れず、丸1日以上ほとんど眠っていない事になり、さすがにものすごく眠くなり、すぐ寝てしまった。
11月2(金)
![]() |
ユダヤ人 |
この日の午前はバスでのコース下見。前回の参加のときは参加しそびれ、そのとき参加した人がコース下見でいろいろなバックグランドを知れて面白かったと言っていたので、今回はぜひ参加したいと思っていた。コース下見では、添乗員の人がニューヨークマラソンの歴史や背景などと合わせて外の風景も説明してくれて、有意義な時間を送れた。ブルックリンにあるユダヤ人居住区では、ユダヤ人の男性が皆、真っ黒の
スーツ(タキシード?)に真っ黒のハット、口ひげを伸ばしていてビックリした。前回も恐らく彼らはいたはずだと思うが、気づかなかった。やはりこういう予備知識があると、マラソン本番もより楽しめると思う。普通のニューヨーク旅行のツアーでは主にマンハッタン内しか周らず、ブルックリンやクイーンズにはめったに行かず、ましてや治安が凄く悪いサウスブロンクスにはまず行かないという。そういう所をこの下見、あるいはマラソン本番で走れるというのは、めったに出来ない貴重な体験であり、そういう観点からするとニューヨークマラソンというのは普通では体験できない稀有なニューヨーク旅行と言えるかもしれない。
午前のコース下見が終わってからは、午後は自由時間。前回のツアーのときは、ニューヨーク市内観光やブロードウェイミュージカル鑑賞など、ツアーにスケジュールがあらかじめびっしりと決められていたが、今回は極論すればマラソンを除けば全て自由行動である。同じツアーの人に同行させてもらって行動することも考えたが、それよりも日本語が通じないこの地で、人に頼らずに一人で色々対処してみたいという思いの方が強く、一人で自分が行きたい所へ行くことにした。今回は前回よりニューヨーク市内ガイドをよく読んだが、前回全くその存在すら気付かなかったアメリカ自然史博物館というのがあるということを知った。ここは豊富な恐竜の化石の他、様々な標本が展示されているといい、世界最大級規模とのこと。私は子供の頃は恐竜や動物に深く関心を持っていた頃もあり、ぜひ行ってみたいと思った。
|
|
グランドセントラルターミナル | セントパトリック大聖堂 |
博物館へ行く前に、まずホテルのすぐ目の前にあるグランドセントラルターミナル駅へ行ってみた。 ヨーロッパの建築物風で中々立派な建物だ。駅のすぐ近くの商店街を歩くと、この前のテロでまだ行方がわからない人達の写真が貼り出されており、献花が供えられていた。こういうのを見ると、やはりあのテロの悲惨さを改めて思い起こされられる。あまり浮かれてばかりいられないなと、少しばかり気を引き締められる。その後、博物館へはぶらぶらと5番 街を北上しながら、セントラルパーク西にあるその場所まで行くことにした。5番街はデパートやファッションのビルが立ち並ぶ通りであり、8年前も歩いたがその時は気づかなかったのだが、セントパトリック大聖堂という中世ヨーロッパ様式の大聖堂がある。大聖堂といっても、裏にははるかに高いビルがそびえ立ち、何だか周りの風景とミスマッチなのだが、ニューヨークでまさかこういう風景に出会うとは思っても見なかった。しばらくの間眺める。
![]() |
|
歩行者信号 |
その後、屋台のホットドッグを食べたいと思って、その辺の屋台を見回してみた。どこも同じ1ドルだった。日本円にして120円ぐらい。まあ、安いのかもしれないが、味は・・・はっきりいってただのホットドッグ、取り立ててうまいというほどのものでもない。本場のホットドックを期待していただけに少しがっかりしたが、まあ屋台なんてこんなものなのかもしれない(以前、博多の屋台で豚骨ラーメンを食べたときも期待はずれだったし・・・)。 それから知らない人のために、ニューヨークの信号の紹介を。自動車用の信号は日本と同じ「青」、「黄色」、「赤」だが、歩行者用の信号は日本の「青」、「赤」ではなく、「WALK」と「DONT WALK」という文字で示されている。それにしても 今回ニューヨークへ来て気がついたのだが、ここの歩行者の信号無視のひどいこと、ひどいこと! 車が全く来ないような時ならともかく、向うから車が来ててても「DONT WALK」の表示の中、平気で道を横断してしまうのである。まず、歩行者信号を守っている人をほとんど見たことがない。私もニューヨークへ着いたばかりのときは律儀に歩行者信号を守っていたが、滞在3日目ぐらいになると、周りに感化されて平気で信号無視をするようになってしまった。あと、些細なことであるが気がついたことがもうひとつある。日本の歩行者信号は青から、青が点滅して赤に変わるのに対し、ここの歩行者信号は、「WALK」から「DONT WALK」の点滅に変わり、そして「DONT WALK」となる。点滅する方が逆なのである。
![]() |
入り口のバロサウルス |
そういうふうにぶらぶらしているうち、目的のアメリカ自然史博物館に着いた。そして入ると・・・いきなりバロサウルスが後足で立ち上がっている化石が。噂にたがわぬ大迫力! 館内への案内は、何ヶ国語かがあり日本語もあった。その内容はまさに正確な日本語そのもので、アメリカ国内にいるということを忘れさせてしまうほどだ。ただ、せっかくニューヨークに来たんだから、やはり英語の案内ももらえば良かったと後から思ったが・・・。 それと、マラソン受付に続いて、ここでも手荷物検査があった。館内に入ると、最初に野生生活を再現した実物大の動物の模型がある。これははっきり言って、模型だしどうでもよく、急いで、恐竜の化石があるところまで行った。
恐竜の化石のところにくると 、いきなりあのティラノサウルスの全身の化石があった。その隣にはブロントサウルス(だと思う)の全身化石があり、本当に凄い迫力。ただ、そういういわゆる一般に知られた化石だけでなく、ディアトリマという、ダチョウのように飛べない鳥だが、鷲のような鋭いくちばしを持った肉食の鳥の化石があったことにむしろ感激した。ここは通でも十分楽しめる場所だと・・・。その後もトリケラトプスの化石などいろいろあり、つい見入ってしまい、それ以外でも色々楽しめ、おかげで時間があっという間に経ってしまい、夜になってしまった。
一通り見終わった後、博物館内の公衆電話から日本の肉親へ国際電話をかけることを試みた。やはりせっかくニューヨークまで来たのだから、地球の裏側の日本にいる人間と本当に会話できるのか試してみたいものだ。ツアーの添乗員の人から、電話はかなり割高なホテルのものを利用するより公衆電話を利用した方が良いということを聞いたことを思い出したので、日本との時差を考えて、この時ならちょうど良いと思って電話をかけることをトライした。ニューヨークの旅行ガイドには、公衆電話はクレジットカードを使えるKDDIなどのサービスがあると書いてあったので、それを試してみたが、クレジットカードの暗証番号を聞いてきて、私はその暗証番号を忘れてしまっていたので、結局電話はかけられなかった。現金でかけようにも、最高25セント硬貨しか使えず、あまり25セント 硬貨を持っていなかったので、結局電話をかけるのは断念した。それからはもう夜も遅いし、そのままホテルへ帰った。
ティラノサウルス | ディアトリマ | トリケラトプスと卵 | プテラノドン | エラスモサウルス |
11月3日(土)
|
|
国連広場 | クライスラービルを背後に |
この日の朝は、インターナショナルフレンドシップラン(国際友好ラン)がある。ニューヨークマラソン恒例の、マラソン前日に行われる サブイベントで、タイムとかは全く関係なく、世界各国から来たランナー達の友好を目的として行われるものである。8年前は確かインターナショナルブレックファストラン(国際朝食ラン)という名前だったと思うが、どうやら名前を変えたようである。 ホテルのロビーにツアーの仲間と集まり、国連広場まで歩くことにした。 あいにく天気は雨模様だった。本番のマラソンはともかく、6kmちょっとしか走らないフレンドシップランではデジカメでこのイベントの模様を撮ろうと思っていた。ただ、雨が降ってしまうとデジカメが壊れてしまう可能性もあるし・・・しかし、もうロビーまで持ってきてしまったので、そのままデジカメを持っていった。外を歩くと雨は降っていなかった。このまま止んだままでいてくれればいいが・・・。
国連広場に着くと、8年前と同じように相変わらず、各国のランナー達であふれかえっていた。国連広場から見上げるビルの光景は晴れていれば絶景なのだが、あいにくの雨模様・・・少し残念。そのうち小雨が降り始めてきて、急いでデジカメをビニール袋の中に隠す。その後は小雨が降ったり止んだりしていた。一連の開会のセレモニーが済んだ後は、国連広場から前の道に出て、フレンドシップランがスタート。ニューヨークマラソンのコースマップを見ればわかると思うが、本番のレースはスタテン島をスタートし、その後ブルックリンをずっと走って、マンハッタンに入ってもその北の端を走るコースであるため、実はいわゆる「ニューヨーク = マンハッタンのビル街」というイメージの場所は一回も通らないのである(これはこれで、ニューヨークマラソンはニューヨーク州のあらゆる地区を通るという重要な意味を持ってコース設定されたのだが)。これに対しフレンドシップランは、国連広場からマンハッタンの中を西に進み、6番街に達したら、そのまま6番街を北上してセントラルパークへ入るというコースで、まさにマンハッタンのイメージそのものという場所を走る。そういう意味では、フレンドシップランこそ、ニューヨークらしいマラソン(マラソンにしては距離が短すぎる?)といえるかもしれない。
|
|
マンハッタンのど真ん中を走る |
セントラルパーク内 |
今回のフレンドシップランは、楽しみながら走ることもさることながら、とにかく写真をたくさん撮ろうとして、色々な場面を撮った。デジカメは、いくら写しても気に入らなければ消せばよいのだから便利だ。しかし今回持っていったOLYMPUS製の10倍ズームCAMEDIA C-700 は、持って走るにはちょっと重過ぎる。これを持ちながら本番の42.195kmを走るのはちょっと無理だろう。まあ、それはそれとして、やはりニューヨークのど真ん中のビル街を、ランナーが占領して走り抜けるというのは気持ちが良い。みんな心から楽しんで走っているのがわかる。フレンドシップランも終盤のセントラルパーク内に入ってからは、雨がやや強くなってきた。カメラが濡れるのが若干気になるものの楽しんで走っていたが、そのうちちょっと嫌な感じが・・・ニューヨークへ出発前に痛めていた右膝がまた痛み始めてきたのである。この1週間大事を取ってランニングは控えてきたのでだいぶ回復してくれたと期待していたのに、まさかこの距離で痛み出すとは思ってもみなかった。たったこれだけ走っただけで膝が痛むなんて、 翌日のマラソン本番が思いやられる。マラソン本番のゲート近くでフレンドシップランを終えると、ベーグルとバナナ、ジュースが入った朝食(8年前は、これのことで国際朝食ランと言った)のビニール袋をもらった。
8年前は、確か他の国の人とTシャツを交換したし、国際朝食ラン(現フレンドシップラン)では違う人同士でTシャツを交換する習慣があると事前に伝えられていたためそうしたが、今回周りを見渡してみると、Tシャツを交換しているような人は余りいない。もうそういう習慣はなくなったのかな・・・まあ、いいや・・・と思い、セントラルパークから出て帰ろうとしたところ、イタリアから来たという人がTシャツを交換しないかと声をかけてきたので、交換した。私のTシャツは、成田空港で買ったもので、日本を象徴するものとして何にするか考えた末、今回は力士の絵が描かれているTシャツにした。イタリアから来た人は、おそらくイタリア内のロードレースでもらったと思われるTシャツをくれた。Tシャツを交換した後、私が渡したTシャツに描かれている絵を指して「これは、スモー・レスラーだ」と説明したが、どうも理解できないようだった。後で考えると、相手がイタリア人だったのだから、サッカーの中田英寿のことを知っているかと聞いてみるべきだったと思った。フレンドシップランが終わると、ルーズベルトホテルはここから遠いし、どうやって帰ろうか考えたが、ビル街の方へ歩いていく人たちがいたので、結局それにつられるように歩いていってしまった。それにしても、世界を代表する大都市のニューヨーク・マンハッタンのビル街のど真ん中を、ランシャツ、ランパン姿で歩いているのである。世界広しといえども、こんな格好でマンハッタンを闊歩できる人間なんて、そうそういるものでない。年に一回この時期のニューヨークマラソン参加者に限られる。そう考えると ある意味特権階級のようで、何だか気分が良かった。
ホテルに帰ると、午後に何をするか考えた。実はこのツアーに申し込むときに、この日の午後はナイアガラの滝を見学するオプショナルツアーに申し込んでいたのだが、そこへの飛行機がキャンセルになってしまったということで、そのオプショナルツアーは中止になってしまった。そういうことで、この日の午後も自由時間になってしまったが、結局8年前にマンハッタンの南端のバッテリーパークから豆粒ほどにしか見えなかった自由の女神を間近まで見に行くことにした。やはりニューヨークといえば、「ニューヨークへ行きたいか!」の福留アナの掛け声がなつかしいアメリカ横断ウルトラクイズ以来、自分の中では自由の女神なのである。
![]() |
Mジョーダン'S ステーキハウス |
その前に昼飯を食べなければ・・・。せっかくアメリカまで来たのだし、やはり本場のステーキは一度は食べてみたい。実はホテルの間近にあるグランドセントラルターミナル駅の構内の中に、なんとあのバスケットボールの神様、マイケルジョーダンがオーナーの「マイケルジョーダンズ・ステーキハウス」という店があるというではないか。まずは、そこへ行くことにした。 午前とは打って変わって、幸い午後は晴れてきて、観光にはうってつけの気候になってきた。外の気温はかなり暖かいので、前日は上着を持って行ったが、この日は長袖シャツのみにした。グランドセントラルターミナル駅に入り、M・ジョーダンのステーキハウスへ行く前に、駅の構内の公衆電話から 前日に引き続き日本への国際電話にトライした。クレジットカードがダメだったから、今度は現金を使った。 国際電話は日本へかける場合、「011-81-(頭から0を除いた日本国内の電話番号)」と番号を押すのであるが、25セント硬貨を入れて、何回押しても011の後を押そうとすると「Projected Number」 というメッセージが聞こえてきて、入れた硬貨が戻ってきてしまう。金額が少ないのではと思って、あらかじめ25セント硬貨を8枚の2ドル入れてみても結果は同じ。ついに電話をかけるのは諦めてしまい、マイケルジョーダンズ・ステーキハウスへ行くことにした。
ジョーダンのステーキハウスへ行ってみると驚いた。ステーキハウスというからには、立派な内装の店かと思っていたら、駅の入り口の一角のコーナーがどうもマイケルジョーダンズ・ステーキハウスみたいだ。 ここから下を見下げれば駅の広間で、まさかこんな所だとは思いもしなかった。 ステーキハウスに入ると、ウェイターがやってきて「こんにちは」だか「ありがとう」という日本語を喋ってきてた(たぶん、ここに訪れる日本人が多いのだろう)。商売のためのリップサービスとは分かっていても、やはり向うの人が日本語を言ってくれると嬉しくなってしまう。そしてドリンクは何がいいか聞いてきたので、ビールを頼んだ。それからメニューを見るといくつかあったが、やはりステーキを食べたいと思って、「ニューヨーク何とか」というステーキを頼んだ。しばらくしてまずビールが来て、その後ステーキのみの皿が来た。ライスやパンのような主食が来てなかったので、これに口をつけていいのかどうか迷ったが、とりあえず口にした。ステーキの肉は赤身の肉で、日本で重宝されるような松坂牛の霜降りのような肉ではない。味付けは、ソースなど全く使用してなく、塩コショウのみだった。個人的にはちょっと塩辛い感じがした。何より、やはり私は日本人。正直、松坂牛の霜降り肉の方が良いかなと思った。食事内容の方は、その後も全く他の皿がくる気配はない。しょうがないからステーキのみ食べ続けた。隣にチラッと目をやると、女性がハンバーガーを食べていた。何だかいろいろあってうらやましい気がした。結局ビールとステーキのみを食べ終えた。今まであんぱん一個などいろいろな食事内容を経験してきたが、一回の食事でビールと肉のみなんて、生まれて初めて経験した。ひょっとしたらサブメニューみたいなものを頼むべきだったのかもしれなかったが、とにかく初めての経験なのでしょうがない。 それにしても、良く考えたら翌日はフルマラソン本番だ。普通ならカーボローディングで前日は炭水化物ばかり取るものなのが、この日は全く逆の炭水化物なし肉のみ。記録を狙っていたら考えられない食事だ。まあ、今回は記録なんて全く考えてなく、楽しむためのマラソンなんだから、まあいいや。料金の精算はビールとステーキで27ドル 、消費税8%を加えると30ドルだった。旅行ガイドによると、チップは料金の15%が相場ということで、消費税込みで10%を目安にすれば良いということなので、33ドルを払った。ステーキの味は、正直言って(自分が日本人のせいかもしれないが)期待はずれの感じもしたが、 アメリカのステーキというのはこんなものなのだろう。それから、今日本を賑わしている狂牛病の影響があるかウェイターに聞いてみようかと一瞬思ったが、自分の英語力のなさと、狂牛病を英語でどう言ったら良いか分からなかったので、断念した。
昼食を食べ終えると、グランドセントラルターミナル駅から地下鉄に乗って、自由の女神まで行くことにした。8年前のニューヨークといえば、それこそニューヨークマラソン当日が、1年のうちで一番治安の良い日だと言われたほど治安の悪い都市だった。特に地下鉄の治安の悪さは有名で、日本から来た無防備な旅行者が地下鉄に乗ることなんてとんでもないことだった。ところがその後、先日の同時テロのときにも大活躍したジュリアーニさんが市長になってから、市長の精力的な活動のおかげで様相ががらりと変わり、今ではニューヨークも治安を心配しなくても良い都市となっていた。グランドセントラルターミナル駅から地下鉄に乗ろうとしたが、ここでトラブルが・・・。地下鉄に乗るための券を買うための自販機に並んでいたのだか、自分の番が回ってきて自販機を前にして、何をどうしたらよいか分からなくなってしまった。自販機を前に右往左往をしていたが、このままではいけないと思って、後ろに向かって「I don't know how ・・・」と言ったところ、すぐ後ろにいたアメリカ人の娘が親切にやり方を教えてくれて、1.5ドルで無事メトロカードを買うことができた。メトロカードを買った後は、その娘に「Thank you very much」と丁寧にお礼を言った。ここの地下鉄は、一回メトロカードを買うと途中降りなければどこへでも1.5ドルで行ける。その点では非常に便利だ。
地下鉄に乗ると、つり革の代わりに鉄の取っ手が直接ぶら下がっていることに、まず驚いた。椅子はクッションにはなく、ベンチのようで非常に座り心地が悪い。 しかし、地下鉄に乗ると道を歩いているときとはまた違った、ニューヨークの人たちの日常の生活、表情が知ることができて面白い。8年前は、市内の移動手段といったら(観光)バスか徒歩のみで観光気分が大きかったが、地下鉄に乗るとまるでニューヨークで日常生活をしている気分になった。地下鉄には、白人、黒人、中国系の人など、色々な人種の人たちが乗り込んできて、別に他を意識するでもなく普通に過ごしている。やはりニューヨークは人種のるつぼなんだと感じた。地下鉄の写真も撮りたかったが、普通の生活をしているところを写真を撮られたら、撮られた方も良い気分じゃないだろうし、また何か因縁をつけられたら困るので止めた。
地下鉄は、タイムズスクウェア駅でマンハッタン南へ向かう路線へ乗り換えた。ここの地下鉄は、日本のような銀座線、丸の内線のような名前はついてなく、番号で識別している。乗り換えた列車は自分の予定ではマンハッタン南端のバッテリーパークへ行くはずだったが、番号を間違えたようで本来Hに乗るはずだったのが、Aに乗ってしまったようだ。これは、パークプレイス駅を過ぎて、本来行くはずの方角の駅でないことで気がついた。このまま列車にずっと乗っていると、マンハッタンを出てしまってブルックリンへ行ってしまう。急いで次のフルトンストリート駅で列車を降りて、逆方向へ戻る列車を待った。そして逆方向へ向かう列車が来たので、早速乗り込んだ。そして発車を待ったが、何だ様子がかおかしい。いくら待てども列車が発車しないのである。そのうち列車から乗客がみな降ろされた。そのうち警察なのか、それとも鉄道の警備員なのか分からないが、車両の中を調べ始めた。何か不審物の知らせでもあったのかもしれない。この前の同時テロの影響もあり、このようなことには今は敏感なのかもしれない。とにかくいくら待っても一向に列車が発車する機会がないので、ついにこの駅から外へ出ることにした。 補足だが、実はバッテリーパーク行きの路線は世界貿易センタービルの真下を通っており、あのテロによるビル崩壊以降、運行不可能になっていた。だから逆方向の列車が仮に発車しても結局バッテリーパークへは行けず、結果的にここで降りて良かったことになる。
![]() |
|
ウォールストリート |
ニューヨーク証券取引所 |
実は、この駅から外へ出るに当たっては不安があった。いくらニューヨークが治安が良くなったからといって、日本に比べたらやはり危険である。地域によっては行かない方が良いと注意をされているところもある。ここで降りることは当初の想定外であり、どんなところか分からなかったので恐る恐る外へ出てみた。どうやら雰囲気的にはそう心配することもなさそうだ。持ってきた地図を見ると、このフルトンストリート駅のすぐ西に 世界貿易センタービルがあったはずである。一瞬、事故の現場を見に行ってみようかと誘惑にかられたが、テロの直後の日本人の非常識さが週刊誌で槍玉に上がっており、不謹慎だし日本人の評判を汚すようなことはしたくないと思い、行くのはやめた。目的は自由の女神を見に行くことだし、ここで降ろされた以上、船に乗れるバッテリーパークまで歩いていくしかない。地図に従って南に進むことにした。
南に進んで歩いていくと、チェイス銀行の建物があった。 どうやらここは金融街のようだ。そのうちウォールストリートへ突き当たった。そうである、ここが世界金融の中心地ウォール街なのだ。ここには当初全く来る予定はなかったが、地下鉄での予期しないアクシデントがあったせいとはいえ、思わぬ拾い物をした感じがした。ここには、かの有名なニューヨーク証券取引所があるはずなので、ずっと歩いていったら、やはりあった。前面には大きな星条旗が掛けられていた。早速写真を撮った。ニューヨーク証券取引所はやはり観光名所のようで、他にも写真撮影している人がたくさんいた。
ウォール街を後にして南へ進むと、ついにバッテリーパークに着いた。海の向うを見ると、島の上に自由の女神がポツリと見えた。肉眼では本当に豆粒ほどにしか見えない。持参したデジカメの10倍光学ズームと3倍デジタルズームを合わせて、ファインダーからやっとお馴染みの自由の女神の顔が見えた。 自由の女神のあるリバティ島へ行くためのチケットを買いに行ったが、セキュリティ上の問題が解決するまでリバティ島への行く船は出ないとのこと。やはり所々でテロの影響は出ている。おかげで今回楽しみにしていた自由の女神までは行くことができなかったのだから・・・。マンハッタンの周りを遊覧する船は出るとのことなので、それに乗ることにした。乗船料は10ドル。船には結構たくさんの人が乗ったので、なるべく空いているところを探して、そこから景色を見て、写真を撮ることにした。船から見るとマンハッタンはやはりビルがびっしりと詰まっている街なんだなと改めて感じる。ただし、ひとつニューヨークにはなくてはならなかった風景が見られないことを再認識させられる・・・テロで崩壊してしまった世界貿易センタービルの姿が跡形もないのである。それにしても 外から見るマンハッタンというものは、島の内側からは分からない美しさがある。そしていよいよ、お目当ての自由の女神に近づいてきた。やはり間近で見る自由の女神は素晴らしい。写真をたくさん撮りまくった。自由の女神の島に行くことはできなかったが、マンハッタンからは豆粒ほどにしか見えなかったものが、これだけ大きく見えるのである。十分満足した。
![]() |
![]() |
![]() ![]() ![]() |
|
船から見たマンハッタン |
本来ならWTCが見えたはずだが・・・ |
間近で見た自由の女神 |
|
![]() |
![]() |
|
|
イーストリバー側から見たマンハッタン |
ブルックリン橋 |
夕日をバックにした自由の女神 |
自由の女神を後にすると発着所に戻るのかと思っていたら、今度は方向転換してマンハッタンの東サイドのイーストリバーの方へ進んでいった。こちらから見るビル群は、近未来的な感じのするビルがたくさんあり、さっきとはまた違った光景。そのうちブルックリン橋に近づいてきたが、きれいな造りの橋である。ブルックリン橋の下をくぐったところで船はターンをして、元来た方へ戻っていった。この時間帯になると日が落ちてきて、夕日にブルックリン橋やマンハッタンのビル街が映えて、これまた本当に美しい。結局船での遊覧は十分満足で、これだけマンハッタンの風景を堪能させてくれれば、10ドルは安いぐらいだ。 小泉首相じゃないけれども「感動した!」という表現がぴったりだ! 船から降りてから、自由の女神に目を見やると、自由の女神が夕日をバックにシルエットになっている姿が あまりも美しく、思わず写真に撮ってしまった。
|
|
|
|
エンパイア |
エンパイアステートビルから見たニューヨークの夜景 |
自由の女神を見終わったら、日が落ちてきてもう余り時間もなく、行ける所は限られてしまっている。8年前にニューヨークへ来たときも、エンパイアステートビルには上ったが、テロによって貿易センタービルがなくなってしまったという悲しい理由があったとはいえ、今は再びニューヨークで一番高いビルであるし、ニューヨークなんてめったに来るところではないから、 また上ることにした。エンパイアステートビルの近くまでも、再び地下鉄で行った。行きに比べて少し勝手が分かったため、かなり手際良くなった。エンパイアステートビルに着いてからは、以前日本でテレビで見たとおり手荷物検査をさせられた。これでニューヨークへ来て3回目である。あのテロ以来、ニューヨークは手荷物検査のオンパレードになっているようだ・・・まあ、あの衝撃を考えればしょうがないが。その後ビルの展望台に登るのだが、これが凄い観客の行列なのである。 行列には同じツアーの人も並んでいたので、挨拶した。エレベータに乗るまでに1時間以上は待っただろうか。苦労してやっとのことで、展望台に上ったが、行ってみると大したことはない。以前上った時の記憶が残っているためか、全然新鮮味がないのである。しかもここの展望台は野外に出て吹きさらしである。いくら昼間暖かかったとはいえ、日が落ちてしまってしかも400mもの高さで風も吹きつけてくる。上着を持たないものとしては耐え難い寒さである。少し夜景を見て、あっという間に室内に入ってしまった。その後お土産を少し買った後、すぐにビルから降りてきてしまった。
実は、この日はニューヨークマラソン恒例(というか、どこのマラソン大会でもやっているか?)のパスタパーティーがあるのである。マラソン参加者全員にパーティー招待券は配られていたため、最後はこれに参加してからホテルに帰ろうと考えていたが、エンパイアステートビルを見終えてから異様に疲れてしまい、どんどんその意欲がなくなってきた。 本当に翌日マラソンを走れるのかというぐらい疲れていた。結局、パスタパーティーがおこなわれるセントラルパーク西へ行くには、地下鉄を何回も乗り換えなければならないという面倒臭さもあり、パスタパーティーへ参加することは止めることにして、この日を終えた。
11月4日(日)
前日のインターナショナルフレンドシップランでは雨が降って嫌だったが、当日は前日とは打って変わっての快晴で、マラソンを楽しめそうだと本当にわくわくして来た。ただ右膝の不安もあり、完走できないのではないかという不安は常に頭から離れなかったが…。ホテルからスタテン島へのシャトルバスの発着場のニューヨーク市立図書館までは近いので、ツアー仲間と歩いて行ったが、各国から来たランナー達の列がずっと続き凄い行列だった。スタテン島の会場に着いてからはツアーの仲間と記念写真を撮り、その後各自別々に行動することにした。8年前は確かエアロビクスのダンスがあったが、今回はないようだ。朝食をろくに取っていなかったため、会場で支給されるベーグルを2つもらいエネルギー源とした。コーヒーもいただいたが、コーヒーは機内食で出てきたものより随分美味しく、おかわりしてしまった。それから、ニューヨークマラソンでの隠れた最大の特徴のひとつであるが、スタテン島での世界最長の小便所というのがある。作りは簡単で竹の筒を半分に割ったようなものを斜面に寝かせただけのものであるが、ここにそう麺でも入れればまるで流しそう麺である。(その現場の写真撮影は、そういう行為は公のモラルに反するので行ってはいません。もしその光景を確かめたい方は、実際にニューヨークマラソンに参加してください。)
![]() |
スタート前の私 |
その後、練習不足の今回は、後半になって間違いなく脚の節々が痛み出すと思って、インドメタシン入りの消炎鎮痛剤を脚の節々に塗りたくった。そしたら、アメリカ人と思われる女性が「準備しているんですか(Are You preparing)?」と聞いてきたので、「そうです」と答えた。その人は今まで11回参加していると言ってきたので、自分も8年前にこの大会に出たことがあると答えた。それで一回は会話は途切れたのだが、せっかくニューヨークまできたのだし、受身だけではなくこちらからも話しかけなければと思い、ちょうどマラソン中のエネルギー補給用に日本からようかんを持参してきていて、これならアメリカ人は知らないので物珍しがるだろうと思ったので、ようかんを見せて話しかけてみた。そしたらその人は「チューインガムみたいなものですか?」と聞いてきたので、どう答えていいか良く思いかばなかったが、とにかく「ちがいます。豆(Beans)と砂糖からできた日本独自の食べ物です。」と答えた。そして「私は30km過ぎのエネルギー補給をこれから取ります。」と付け加えた ら「良い考え(Good Idea)ですね」と言ってくれた。とにかく今回が、ニューヨークへ来て初めて英語で会話らしい会話した感じだった。その後私の写真を撮ってもらって(その人の写真、撮らせてもらうの忘れました)、「Good Luck」と言った後、それぞれスタート位置へ向かった。
スタート位置は、青・緑・赤の3つに分けられ、青は恐らくサブスリーの持ちタイムを持つ速い集団、緑は中間のスピードの集団で3時間15分の持ちタイムを持つ自分はこの集団、そして赤はタイムがどれぐらいから後なのか分からないが残りの遅い集団となる。 それから、今回はランナーズから発売されているウルトラマラソン用のウェストポーチを着用して走ることにした。2つ収納場所のうち、一方にはカメラ、もう一方にはインドメタシン入り消炎鎮痛剤とようかん、ティッシュを入れた。服装は、この日は寒くないので走り始めたら多分暑くなるだろうと思って、大学のOBで作ったチーム「稲穂AC」のユニフォームだけで走ろうと思っていたが、ウェストポーチをつけるときにナンバーカードが隠れてしまう問題があり、かといってユニフォームの下にウェストポーチをつけると、素肌に直接ふれてこすれてしまうため、しょうがなく内側にTシャツを着ることにした。やはり「稲穂AC」はアピールしたいので、ユニフォームは着ないわけにはかなかった。
|
|
ベラザノ橋 |
橋の向うにマンハッタン島が |
スタート位置に行くと、もう既にランナーみな盛り上がっていた。
スタート位置では、英語、フランス語などのアナウンスとともに、なんと日本語でのアナウンスがあった。毎年相当数の日本人が参加しているんだなと感じた。(後で確認したら、日本人はアメリカ国外からの参加人数では6番目で、ニューヨークマラソンのお得意さんだった。)8年前も快晴だったが今回も全く同じような光景で、テロの影響は全く感じなかった。(実際には、例年と違い警備厳重の厳戒態勢の中で行われたそうだが、走っている側からはそういうことは感じなかった。
厳重警備をしてくださったニューヨーク警察の方々には本当に感謝申し上げます。)今年のニューヨークはいつもと違い、歴史に残る不幸な事件があり、その後も物騒な騒ぎがあっただけに、この場にいられることを本当に幸せに感じた。私は今回、落として壊れたら困るので使い捨てカメラではあるが初めてカメラを手にして走るという試みをしたが、隣にいるドイツ人は何と大きな一眼レフカメラを首にぶら下げてのスタートについていた。上には上がいるものだ。ジュリアーニ・ニューヨーク市長がこの前のテロについて触れた内容の挨拶をするなど、スタート前の一連の挨拶が終了し、
いよいよスタートした。前回は、スタートしてからスタートラインを横切るまでに2分以上かかった記憶があるが、今回は42秒で通過し意外だった。それにしてもスタートしたらいきなりこのマラソンの名所の一つ、ベラザノ橋を渡る。とにかくこの橋を見上げる光景は壮観である。いきなり何枚も写真を撮ってしまった。左横を振り向けば海の向こうにはマンハッタン島が見えて本当に良い景色だ。
![]() |
ブルックリン4番街 |
橋を渡り終えるとブルックリンの街に入る。ここで我々緑の集団と赤の集団は、一旦別々のコースへ分かれる。今年はテロがあり、ランナー達は盛り上がっていたが、肝心の沿道の人達の声援は自粛して静かで、ましてや前回参加したときにぶったまげた沿道でのロックバンドの演奏なんてないんではないかと心配していたが、全くそんなことはなく、 沿道の声援はすごく、早くもロックバンドの演奏もあってこちらも前回そのままだった。最初はこのお祭り気分のそのまま、時折沿道に手を振ったり沿道の子供達とタッチしたり、更には今回はカメラを手に持ち撮りたいシーンを探しながらと、全く無理のないペースで走り、 本当に楽しみながら走っていた。前回参加したときは、キロ表示はなく1マイルごとのマイル表示のみだったが、今回は5kmごとのキロ表示もあるとのこと。給水所は、こちらでは日本のようにテーブルの上に給水を置いているということはない。必ずボランティアの子供たちが手渡しで渡してくれる。大会で用意してくれるのはWater(水)とGatorade(ゲータレード)であるが、Gatoradeについては、「ゲイタレード」とちゃんと聞こえるが、Waterについては、「ウォーター」ではなく、どう聞いても「ワラー」としか聞こえない。これは、例えば「twenty(20)」のことを「トゥエンティ」ではなく「トゥエニィ」とか、「Get up (起きる)」のことを「ゲット・アップ」ではなく「ゲラップ」と聞こえるのと同じようなことなのであろう。とにかくこれに関しては、文字からだけではわからず、実際に音を聞いて慣れるしかないのだろう。 気温は、走り始めたらやはり暑くなってきた。やはり予想通りだった。この後は、給水所でも再三頭から水をかけた。
5km地点の通過タイムは26分43秒でスタートラインから5kmのスプリットは26分01秒。カメラを持ちながらの遊び気分の走りにしては、予想以上の良いペース。ただし、そのあたりから前から不安だった右膝が早くも痛み出してきた。「これではこのマラソン、楽しみどころじゃないじゃないか! あんな3時間走なんてやるんじゃなかった。」そんな思いを抱いたが、今更悔やんでもしょうがなし、とにかく走れるまで走ろうと思った。膝になるべく負担をかけない走法をと思っていろいろ試しているうちに、競歩とランニングの中間の動きのすり足走法をすると膝への負担が減ったので、その後はそのような走法を続けた。4マイル (6.4km)過ぎで一旦別れた赤の集団と合流。10kmの通過は51分26秒、5kmから10kmの スプリットは24分42秒で、こんな走法でもキロ5分を切っていてびっくりした。これなら3時間台で走るのは余裕かもとこの時思った。
![]() |
19km地点で写真を撮ってもらう |
10kmを過ぎた後からは、痛い膝のことはともかくとして、沿道の人にカメラを渡して私の写真を撮ってくれるよう、いったいどこで頼もうかと考えながら走っていた。走る前は、このニューヨークのコースを走った証として、絶対沿道の人に写真を撮ってもらうんだと意気込んでスタートしたのに、いざ走ってみると、全く見ず知らずの異国の地の人にそのようなことを頼もうとするのを躊躇してしまう。そうこう悩んでいるうちにあっという間に5kmほど経ってしまった。15kmまでの5kmのスプリットは25分18秒でまだまだ快調。 この辺りで、私の前を走っているランナーのTシャツの後ろに、おそらくこの前のテロで行方不明になったと思われる肉親の写真がプリントされていることに気がついた。 いくらこのマラソンがテロを感じさせないような盛り上がりを見せているとはいえ、テロの影響はこういうところに出ているんだなと感じた。その後コース下見で通ったユダヤ人居住区を通過したが、この日もあの時と同じように、ユダヤの男性は、黒ずくめの服装に口ひげの姿をしていた。そうこうしているうち、このままでは自分の写真を撮ってもらう機会を逸すると思い、いよいよ 、とにかく誰でもいいから沿道の人にカメラを渡して撮ってもらおうと決めた。カメラを渡すところは、やはり狭い道だと他のランナーの邪魔になるので広い所でなければダメで、 19kmあたりでやっとそういう所を見つけたので、沿道のオッサンにカメラを渡して頼んだら、快く応じてくれ、写真を撮ってもらった。そのオッサンも思わぬリクエストに逆に楽しかったのか笑顔一杯で、その後握手をして「Thank you」とお礼を言って、その場を後にした。
![]() |
ランナーの横にマンハッタンが見える |
沿道で写真を撮ってもらったまでは、右膝の痛みを除いてはどちらかというと快調で、3時間台も余裕かと思ったが、写真を撮ってもらってから少しも経たないうちに新たな異変が・・・左大腿部前面の内側の筋肉がつりぎみになってきた・・・まだ半分も走っていないというのに。この前3時間走を行ったときはこんな所は全くつらなかったのに今回つったということは、やはり右膝をかばって極端なすり足走法という変則的な走りを行ってきたからだろう。もっとも前日の昼食が、マイケルジョーダンズ・ステーキハウスで食べたステーキとビールだけだという 全くカーボローディングに反しているという内容も多少は影響しているかもしれないが・・・。後への不安は一杯のまま、そのうちこの状況が収まってくれることを祈りながら走り続けた。
中間点は、ブルックリンからクイーンズへ渡る橋にある。そしてその橋を渡りながらふと左横を見ると、エンパイアーステートビルを中心としたマンハッタンの風景が・・・。あまりにも良い風景なので、思わず立ち止まってしまい、写真を撮ってしまった。後日、日本の某週刊誌にニューヨークマラソンが取り上げられていたが、ここのシーンがやはり取り上げられていた。ここのシーンは、ニューヨークマラソンの中でもハイライトのひとつのようだ。20kmの通過は1時間43分52秒で、それまでの5kmが27分09秒、ペースは多少落ちた。ハーフの通過は1時間49分47秒。つりかけた左大腿部は収まったようだし、あとの半分をこれより20分余計にかかって走っても4時間を切れると思うと、3時間台は多分出せるのではないかとかなり楽観的になってきた。その後、いよいよマンハッタン島へ入るクイーンズボロー 橋へ。前回走ったときは、確か鉄骨の歩道の上にカーペットを敷いてあるコースを走ったはずなのだが、今回は車道だった。とにかくこのクイーンズボロー橋を通るところも、自分の中の楽しみの一つだったのだが、まさか地獄の始まりになってしまうとは・・・25km手前で、ついにつりぎみだった左大腿部前面内側が耐えられなくり、コースをそれて屈伸を始める羽目になってしまった。左脚のつったところを手で触ってみると、本当にガチガチに硬直化していた。これでは走れるわけない。すかさず、身に着けていたウェストポーチからインドメタシン入り消炎鎮痛剤を取り出して塗ろうとしたが、またもや予期せぬ出来事が・・・ウェストポーチの内側がヌルヌルになっている。どうやら走っているときの振動で、消炎鎮痛剤のチューブが裂けてしまったようだ。「なんてこった」と思いながも、カメラとこの消炎鎮痛剤を別々の場所に分けて入れていたのは幸いだった。もし同じところに入れていたらカメラは裂けて漏れた消炎鎮痛剤にまみれて、最悪の場合使えなくなっていたかもしれない。こんなことは当初は考えてもいなかったのだから、カメラと消炎鎮痛剤を分けていたのはまさに偶然である。本当に助かった。消炎鎮痛剤は、つった部分を中心に脚全面に塗りたくった。当初は右膝が痛んだときのために用意していた消炎鎮痛剤を、まさか脚をつって大量に使うとは思いもしなかった。それにしても一回つった脚は中々回復しない。みんな元気に走り抜けていく中、歩道で脚の筋肉を伸ばし、回復を待つのは本当に辛い。ようやく走り出せるようになったのは5分ぐらい経ってからだろうか? ようやく走り出して、すぐの25kmの通過は2時間19分41秒で、この間の5kmは当然ガタ落ちし、なんと35分49秒。一気に貯金を使ってしまった感じ。3時間台はこの段階でかなり雲行きが怪しくなってきた。
|
||
クイーズボロー橋 | 1番街 | 1番街の給水所 |
クイーンズボロー橋を走り抜けてマンハッタンへ入ると、いよいよこのコースの一番華やかな1番街だ。とにかく沿道の声援が素晴らしい。前回もちょうど疲れかけてきた25kmを過ぎてから、いきなりこの沿道の声援で一気に疲れが吹き飛び、そのままゴールまで走りぬけてしまった。今回もこの声援の中、時折沿道に手を振ったりして本当に気分良く走ることができた。このまま8年前と同じように終わりまで行けたらいいなと思ったが、また大腿前面の筋肉がつり気味になってきた。しかも今度は両脚が・・・。そして1番街の沿道の人も少なくなってきた30km手前だろうか、ついに我慢できなくなって再び立ち止まってしまった。屈伸を繰り返すが、全然良くなってくれない。そして少し良くなったと思って走り出すと、すぐまたつって立ち止まらずを得ない状態になってしまう。私が今までマラソンを走ってきて、マラソンの最中に一度も歩いたことがないというのが一つの誇りであったが、この状態でそんな意地を張っていたらそれこそゴールまで辿り着けないのではないかと思い、ついに歩くことにした。とにかく回復するまでは歩き、回復したら走り、また脚がつったら歩くことを繰り返すことにした。
ランニング中の私 |
|
![]() |
![]() |
何だか凄く疲れた顔してる |
こちらは笑顔が |
それにしてもこういう状態になると本当に辛い。周りのランナーが元気に走り続けているだけに余計にその思いが強くなる。今までマラソンを走っていて、歩いている人を見ると「根性なしでだらしないな。」などと半ば軽蔑の目で見ていたが、 走りたくても走れない状況があるということがわかった。これからはこういうランナーに対しても、もっと温かい目で見てあげよう。しばらくジョッグ、そして歩くという状況を繰り返していたが、ジョッグをし始めるとすぐに脚がつり始める。こんなことを繰り返していては、いったいいつゴールまで辿り着けるか想像さえつかない。そんなこんなの状況の中、マンハッタンからブロンクスへ抜ける橋に来た。 この橋の中にRCチップのスプリットを記録するカーペットがあり、自分の時計をチェックすると 3時間08分13秒。このチェックポイントが30kmだと思ったので、この5kmで48分32秒もかかったのかと思うと、ちょっと絶望的な気分になってきた。一体本当にゴールまで辿り着けるのかと。
そういう絶望的な気持ちの中、逆説的だが一つのアイディアが思い浮かんだ。ジョッグをして脚がすぐにつるのであれば、それと違う動きをすればいいと・・・すなわち、ジョッグのような遅い動きではなく、それこそ10kmレースを走るような速い動きをすればいいのではないかと。この考えには実は伏線があった。このマラソンへ向けて練習している中で右膝を痛めたと前に述べたかと思うが、そんな中ジョッグをしているとすぐに右膝が痛み始めるのに、スピードを上げたレース中のようなフォームで走ると右膝の痛みが消えたのである。さっそくこれを実行してみた。すると不思議、やはりジョッグの時と違って大腿前面がつらないのでる。しかもこのフォームで走ると周りのランナーと比べてスピードが全く違う。ただ一人別次元のような走りで、周りのランナーを置き去りにできる。それで腿がつらないのであればこんなに都合が良いことはない。 しばらくの間自分だけ他と全く違うスピードでどんどん抜いていく優越感に浸っていたが、やはり甘くない。そのうちやはり腿がつってしまっい、また歩く羽目に。しかしジョッグのときと比べれば、つるまでの時間が長い。これからはこの方法でいくことにした。
![]() |
ブロンクスへ抜ける橋 |
ブロンクスから再びマンハッタンに入り、35kmの通過は3時間23分04秒。さっきのチェックポイントからは何と14分51秒で、これはいくらなんでも5kmというのはおかしい。どうやら、さっきの通過ポイントは20マイルで自分が30kmだと勘違いしていたようだ。一時はとんでもなく遠いと思っていた35kmが予想に反して意外なほど 早く来て、なんだか急に気分が楽になってきた。それから35kmの通過を見て、あとの5kmを30分としてそれに10分足しても4時間を越えてしまう。この時点ではっきりと4時間を切ることを諦めた。それにしても今回は楽しむために参加して、しかも脚がつって歩いてしまうという事態にもなったにもかかわらず、まだ心の隅にはそんなことを考えていたかと思うと、自分は本当に往生際が悪いと思う。35kmあたりのマンハッタンの南(正確には南西)に向かっていくコースは、直射日光を前方から受け、本当にまぶしい。この辺りの給水所では、ほとんどのランナーが歩いている。こんなシーンは今まで見たことがない。自分の過去の自己ワーストが3時間45分だが、おそらく3時間中盤までのランナーというのはゴールまで走り続けるが、4時間以上かかるランナーというのはどこかで必ず歩いてしまうのだろう。4時間を切るか切らないかというのはこの辺を我慢できるかにかかっているのかなと思った。35km過ぎも、スピードを出して走り、脚がつったら歩くの繰り返しをしたが、スピードを出しているときの走りというのは、35km過ぎでこんなに軽快に走ったことはないくらいの走り。まあ、すぐに脚がつって歩いてしまうのだが・・・。
そんな歩き走りを続けているうちに、セントラルパークへ入った。ここの応援もまた凄く、最後の最後再び力が沸いてくる。ここでは日本人からの日本語の応援も多く聞くことができる。幸い38kmあたりを最後にして脚のつりが収まったようで、その後はこの声援の中ずっと走り続けたいし、スピード走はやめてゴールまで持つ走り方に変えた。もっともこの大会では、確かコースの2ヶ所にビデオが設置されており、そのうちの一つがセントラルパーク内だと思ったので、歩く姿を撮られたくないという思いがあったのも事実であるが・・・。40kmの通過は3時間55分28秒で、この間の5kmは32分24秒。スピードを出して走ったせいか、あれだけ歩いた割には時間がかかっていない。セントラルパークに入ってからのコースは前回と若干変わったみたいで、今回はセントラルパークの東南端から一旦セントラルパークの外に出て、そこから西に向かって進み、西南端のコロンバスサークルから再びセントラルパークへ入る。そしていよいよゴールまではあと僅か。ゴール前の両側の設置されている仮設スタンド の向うはゴールのゲートが見える。ゴールは両手を大きく広げながらフィニッシュ。 ゴール直前では顔を上げていたつもりだが、ゴールラインで下を向いてしまったようで、大会公認の写真業者が送ってきたゴールシーンでは顔を下に向けていた。せっかくのゴールシーンなのにこんな写真でかなり残念。今回は脚がつってしまって後半は散々な仕打ちにあったが、十分に大会を楽しめたと満足感で一杯だった。ここは たぶん何回出てもそういう気分になるんだと思う。
|
|
|
ゴールシーン (下を向いてしまった) | ゴール直後、銀色のシートをまとったランナー達 | ゴール後の私 |
ゴールし終わってからは、首に完走メダルをかけてもらった後、ニューヨーク名物の銀色のシートにくるんでくれる(というか半ば強制的にくるまれてしまう)。レース後体を冷やさないためである。前回参加したときは、セントラルパーク内の公園へ向かっていったが、今回はそっちには行かないようだ。とにかく流れに任せて歩いていった。そのうち、せっかくだからゴール後の写真も誰かに撮ってもらおうと思っていたところ、逆に写真を撮ってくれるように頼まれたのでその人のことを撮ってあげた後、すかさず私のカメラも差し出して、(お互い様なんだからと)私のことも撮ってもらった。ニューヨーク滞在4日目で、自分 も随分大胆になったものである。 前日と違って、この日はフルマラソン完走後で脚がボロボロである。遠いルーズベルトホテルまで歩いていくのはかなり辛い。ホテルまでシャトルバスが出ているとも聞いていたのでそれに乗ることもできたが、マラソンを走り終えた人たちが進んでいく流れに任せているうちに、またしても歩いていくことになってしまった。途中、コロンバスサークルでまだゴールまでゴールに向かっているランナーの応援をした後、 前日のようにランシャツ、ランパン姿でマンハッタンのど真ん中を歩いた。ただし、脚はボロボロで前日のように闊歩するとは程遠い状態だった。
ホテルに帰ってからは、まず風呂に入って4時間の長丁場で体にびっしりまとわりついた汗の塩を流してすっきりした。その後、ホテル内でマラソンを終えて帰ってきたアメリカ人らしきオッサンがいたので、「マラソンを走ったのですか(Did you run the marathon)?」と聞いたら、その人は余り機嫌が良さそうではない。そして「I'm empty.」と言ったので、私はなんて答えたらよいかわからず、そのうち挨拶もせずに別れてしまった。(「empty」とはいったいあの場面では何をさしているのだろうか? 言葉そのものは「空っぽ」であるが、あの場面での意味が図りかねる。)お互い、お疲れ様と励ましあおうとしたことが、逆に気まずくなってしまうとは・・・日本語のようにはうまくいかないものである。
この日は、夜にツアーの人達と一緒に完走パーティーを寿司屋でやることになっている。実は私は追加枠でのツアー参加だったので、既にこのパーティーが満席で出れないことになっていた。それだったら大会公式のパーティー(北海道マラソンのフェアウェルパーティーのようなもの?)にでも出ようとも考えていたが、運良くこの完走パーティーに出れることになった。やはりマラソンが終わった疲れた体の中、お互い疲れたもの同士、ビールを飲みながら 全く不自由のない日本語で話したいものである。しかし、その前にまだやることがあった。今まで何回も失敗している日本への国際電話のトライである。今度はツアーの添乗員の人にかけ方を聞いたのだが、フォーンカードというものを買えば良いとのこと。そこで近くのデリカテッセンで早速5ドルの フォーンカードを買い、また グランドセントラルターミナルへ行ってトライしてみた。ところが何度やっても通じず、残りの金額がどんどん減っていってしまい、1ドルちょっとになってしまった。
結局またしても日本への電話を失敗した後、ツアーの仲間とともに完走パーティーの寿司屋へ向かった。寿司屋へは合計4人で乗り合わせてタクシーで行き17ドル払ったが、帰りのタクシー代が5ドル台で、完全に足元を見られており、後でみんなと悔しがった。完走パーティーでは、今まで会ったこともない人ばかりであるにもかかわらず、やはりマラソンを走るという同じ目的を持ってツアーに参加したもの同志のせいかすぐに打ちとけて、本当に楽しくいろいろ話をした。ツアーの参加者の中には、あの世界貿易センタービルの崩壊後の現場を見に行ったものもいた。それからツアーの参加者の中にはマラソンを5時間台後半より遅く完走した人たちも結構いて、こういう人たちは、日本での5時間制限の大会では記録なしに終わってしまい、日本の大会に参加するには実は非常に大きな壁が存在しているのである。そういう人たちも受け入れるニューヨークマラソンの懐の深さを感じた。蛇足であるが、今回私が参加したツアーでトップの成績だった人は2時間41分台で、あとでニューヨークマラソンの公式WEBサイトで検索してみたところ、日本人全体でのトップはこの人であった。今までなら2時間10分台で必ず実業団の選手がいるものだが、やはりこの前のテロで、実業団の一線級は揃って参加を見合わせたのだろう。パーティーが終わった後は、ホテルへ帰りすぐに寝た。
11月5日(月)
マラソンも終わってしまって、この日は日本へ帰る日である。何だかさびしい気持ち。このホテルを出る前に、まずニューヨークタイムズを買わなければならない。ニューヨークタイムズには前日のニューヨークマラソン完走者の全成績が載るからである。この日の早朝、もうお馴染みになってしまったすぐ近くのグランドセントラルターミナル駅にまたしても行き、売店でニューヨークタイムズを買った。75セントですごいボリュームである。トップページはアメリカ大リーグの記事があり、ランディ・ジョンソン擁するダイヤモンドバックスが地元のニューヨークヤンキースを破って優勝したとのこと。マラソンのページを見ると、確かに私のタイムも載っており、4時間09分19秒であった。その後、まだやらなければならないこともあった。別に電話で何を話すわけでもないのだが、とにかく地球の裏側のマンハッタンから日本へダイレクトにつながっているということを確認したかっただけである。ツアーの添乗員の人に聞いて、 フォーンカードの正しい使い方をやっと知って再度トライ。前日まで失敗し続けていた日本への国際電話である。この機会を逃してしまったら、もうマンハッタンから日本へは電話はできない。祈るような思いで電話をかけたら、ついに日本につながった。電話では肉親とは別に大したことも話さなかったが、とにかく地球の裏側のマンハッタンから日本にいる人と会話できただけで満足だった。
![]() |
![]() |
海上の氷 |
飛行機の航路 |
朝の用事を済ました後は、バスに乗ってJFK空港へ向かった。短い期間だったが、今までいたマンハッタンを後にするのは、やはり寂しい気持ち。JFK空港に着いたら飛行機に乗り、今度は14時間のフライトである。行きよりもさらに2時間長い。行きと違って帰りは地球の自転方向と同じ方向へ向かってのフライトである。日はずっと沈まないのだが、機内で映画を上映するということで窓の日よけは全て閉められ、 実際には機内は暗くなってしまう。隣の席には、40歳代の同じツアーの人で、今回マラソン2回目にしてサブスリーを達成したという人がいた。この人は息子をツアーに同行させて、本場のNBAの試合を見せたりといろいろな経験をさせたとのこと。本当に良いお父さんで、息子さんがうらやましいと思った。その後は暇になったので、少し席を立って外の景色を見に行ったが、なんと飛行機の下は、一面氷の海である。こんな光景は生まれて初めて見た。思わず写真に撮ってしまった。8年前のフライトでは見えるのは一面雲ばかりで、こういう光景を見れるかどうかというのは運もかなり左右する。本当に今回はこんな景色が見れて幸運だった。機内に表示される航路図では、アラスカの北を示していたので、ここは北極海である。この光景を見て、「ニューヨーク ― 日本」というのは本当にすごい所を通ってくるんだなと実感した。そしていよいよ14時間のフライトが終了する。今までの思い出が全て過去のことになってしまうんだなと思うと、寂しくなってきた。
11月6日(火)
ついに日本に到着してしまった。時間はもう午後4時近い。成田空港内ではまだ少し外国の雰囲気が残っているが、これからどんどん日本の生活に触れ、今までの非日常から現実世界に引き戻されるかと思うと、ちょっと憂鬱になってきた。成田エクスプレスに乗って新宿に着いてから、京王線に乗ったら回りはサラリーマンだらけで、いよいよ日本の現実社会に入ったんだと実感した。そんなこんなで、最後は、ニューヨークへの名残惜しさを心に残したまま家路へ着いた。
<ニューヨークマラソンツアーを終えて>
今回、2度も参加をあきらめかけたニューヨークマラソンに参加できて、本当に幸運だった。特に2回目のあきらめに関しては、人類史上いまだかつてない最悪のテロがあり、その後も炭疽菌騒動ありと、日本国内にいたらニューヨークはまるで戒厳令がしかれた戦時下の都市のような印象さえ抱かせた。(もっとも私自身はそのような報道には懐疑的で、本当にニューヨークが危険地帯なら人々を強制撤去させているはずだし、現実的にはそんなことをしていないから、危険なことはないだろうと確信していたが・・・。)しかし、実際に参加したことにより、ニューヨークが別に日本国内で報道されているような危険地帯とは程遠く、むしろジュリアーニ市長のおかげでこの8年で格段に治安が良くなったことを確認できたし、そしてなによりもニューヨークマラソンが世界一のマラソン大会といわれる理由を改めて実感できて本当に良かった。
マラソンに関しては足の故障もあり元々練習不足で、タイムが4時間を上回ってしまったことに関してもしょうがないと思っている。ただ脚がつってしまって初めて歩いてしまったので、やはりマラソンは最低限完走するにもそれ相応の練習が必要だと痛感した。まあ、マラソンについては、タイムなら日本でいくらでもリベンジをする機会があるから良いとして、今回痛切に身に付けたいと心の底から思ったのが、やはり英語によるコミュニケーションを現地の人たちと自由にしたいということだった。とにかく、今の自分に英会話力が全くないことを改めて痛感した。思ったことを英語で自由に表現はできないし、英語を聞き取る耳も弱く、ネイティブが言っているとも良く聞き取れなかった。だから現地の人とは限られた表面的なコミュニケーションしかできない。マラソン をしにニューヨークまで来たのだから、マラソンを楽しめれば良いという人もいるかもしれないが、せっかくニューヨークまで来たのだから、その機会を何倍にも有意義にするのがやはり現地の人との直接のコミュニケーションだと思う。実は、8年前にニューヨークマラソンツアーに参加したときに、現地のマクドナルドに入って、ハンバーガーとフライドポテトを頼んだのにポテトが通じず、レジの娘が裏へ助けを求めに行くという「穴があったら入り たい」というぐらい非常に恥ずかしい思いをしたことがあり、そのとき以降、一時的に英会話に力を入れていた時期があった。しかし、徐々に安易な方に流れてしまい、最近では英会話に関することは全くやらなくなってしまった。今回このような機会を得たことにより、再び英会話を行おうというモチベーションが自分の中に生まれた。今後はぜひ継続的に英会話に力を入れ、次にこのような機会があったときは今回のようなもどかしい思いをしたくないと強く思った。
ニューヨークへは8年前に続いて今回が2回目であるが、8年前に経験できなかったことをいくつかできた。特に前回は治安上の関係で乗れなかった地下鉄に乗れたことは、現地の人の日常生活に溶け込めたような気がして、前回とは全く違った経験ができて本当にに良かった。前回近くで見れなかった自由の女神を間近で見れたことも本当に貴重な体験だった。ただ、同じく前回見上げただけの世界貿易センタービルも、フリーの時間が多かった今回、もし建っていたらおそらく展望台まで上ったであろうに、現実にはあの悲惨なテロのせいで今は跡形もなく、その夢は永遠のものとならざるを得なかった。その他、恐竜の化石を見れたアメリカ自然史博物館なんていう存在は前回は全く知らず、まだまだニューヨークは知らないところがたくさんあるんだなと思った。まだメトロポリタン美術館には行っていないし・・・。今回はタイムズスクウェアなどに行く時間がなくなってしまって、ニューヨークのエンターテイメントにふれることは全くできなかった。そういう意味では、ニューヨークにはまだまだやり残したことがたくさん残っていると思う。ニューヨークマラソンというイベントに限らず、また再びニューヨークへ訪れてみたいと思った。
※日記中の、私がマラソンを走っている最中の写真は、大会公認の業者から送られてきたサンプルをスキャナーで取ったものです。従って、青いマークなど所々に不自然な印が付いています。公式の写真は申し込めば、いずれは送られてくると思いますので、そのときは、改めてちゃんとした写真をUPする予定です。