2006年ボストンマラソン参加&北米滞在日記
作成 2006. 8. 13 一部修正 2006. 11. 4
次ページ
<はじめに>
今年2006年は、入社10年目以降5年に一回好きな時期に長期休暇を取得できる年で、この休暇を利用して海外旅行に行くことにしたが、私の海外旅行としては毎度お馴染みの海外マラソン参加にした。過去2回海外マラソンに参加した経験がある(5年前は会社の長期休暇制度を利用して取得、13年前は特に理由なく自主的に取得)が2つともニューヨークマラソンだった。ニューヨークマラソンは雰囲気が素晴らしく何回出ても良い大会であるが、さすがに限られた機会しかないのにニューヨークマラソンだけではつまらない。したがって今回は世界で最も伝統と歴史のあるボストンマラソンに参加することにした。ボストンマラソン参加に際して他のマラソンと違うところは、ボストンには参加標準記録というものがあり、35歳未満ままでは3時間10分切り、その後5歳刻みで5分ずつ標準記録が緩くなっているので、35歳から39歳グループに入る私の標準記録は3時間15分となる。2003年に2時間59分22秒で走ったことがある自分としては、この制限をクリアすることは何ら難しいことではない。そのためこのタイムは余裕でクリアできるであろうと思っていたことに大きな落とし穴があった。標準記録突破を狙って出場した2005年3月の荒川市民マラソンでは結局3時間18分25秒に終わってしまい、標準記録をクリアできなかった。別にレース中トラブルがあったわけではなく、3時間10分程度で走れれば良いと思って練習で手抜きをしてしまったことが、そういう結果を招いてしまった。その後の標準記録突破の機会は同年11月のつくばマラソンと2006年1月の勝田マラソンがあったが共に直前の足の故障で出場することすらできず、結局ボストンマラソンの標準記録はクリアできずに終わってしまった。ただ、申し込んだボストンマラソンのツアーでは、参加標準記録をクリアしなくても出られる枠が確保されており、その枠を利用して出場することにした。サブスリーの記録が持ちタイムの自分としては、この程度の標準記録を切れないでボストンマラソンに参加することは不本意ではあったが、しかしダメだったもことを今更悔やんでもしょうがない。ボストンマラソンはあくまでも楽しむための参加であるし、気持ちを切り替えて参加することにした。
それから今回、思い切って母親を誘った。私の母は今までアメリカには一回も行ったことがない。別に行こうと思えばいつでも行けるのだが、特にそういうところに行きたいと思っている人間以外、何かの機会がないとなかなか行かないだろう。今回のマラソンツアーでは、ボストンだけでなく、ナイアガラの滝、ニューヨークと観光名所を回るため、行けば絶対満足してもらえるだろうと思ったので誘うことにした。
<旅行日記>
4月14日 初日
いよいよ出発である。今回は、前にも述べた通り母が同行するので、途中で母と合流して成田空港へ着く。今回、実は名簿にあの有名な世界の谷○浩△という名前が載っていて、字がそっくりな上宮崎在住だということで、もしや本人かと思って参加したが、マラソンツアー参加者の集合場所へ集まってみたら同姓同名の別の方だった。(そのことは別にして、このツアーを通じて、この人とは結構よく話した。この人のことをここではTさんと呼ぶ。)ツアーに参加したメンバーを見ると、皆さんお歳を召しておられる方が多く、本当にビックリした。60歳を超えておられる方もかなりいて、それでなくても多くが50歳を超えていたと思われ、若手と思われる人間はツアー参加者全52人(そのうち応援が私の母を含めて10名)中、私を含めて3人しかいなかった。(まあ、私ももう30台後半で、世間一般からすれば十分おっさんなんですが・・・。)過去2回ニューヨークマラソンに参加して、そのときも皆さん結構歳を取っている人が多く学生などほとんどおらず、やはり海外マラソンへの参加は金と暇がないと難しいんだなとは思って平均年齢がかなり高くなるとは予想していたが、それでも今回の高齢率はその2回を遥かに上回っていて、正直かなり驚いた。
 |
 |
座席裏のスクリーン |
ニューアーク空港内のファストフード店 |
そして、飛行機へ搭乗。外国へは過去2回しか行ったことがなく(しかもいずれもニューヨーク)、ユナイテッド航空、ノースウェスト航空と、いずれもアメリカの航空会社だったが、今回もコンチネンタル航空とアメリカの航空会社だった。ただ今回大きく違ったのは、過去2回は機内では全く日本語がなかったのに、今回は日本語放送もある上、日本語ができるアテンダントが数名おり、日本人渡航者に優しいサービスになっていた。(個人的には、機内に全く日本語がない方が自分の英語力の腕試しができるので良いと思っていたが・・・結果的に、またしても自分の英会話力の無さを、向うに着いてから痛いほど味あわされたが。)ちなみに、日本のスチュワーデスと違ってオバさんばかりだったのは、5年前のノースウェストと同じだった。それから、これは今は大型機では常識なのかもしれないが、機内で上映する映画が、以前は飛行機内のいくつかのブロックにひとつ大きなスクリーンで上映していたのが、この航空機では各人の目の前の椅子の背もたれの裏に小さなスクリーンが付いていて、これを各自好き勝手に見れるという方式になっていて、これは予想外だった。(各ブロックの一番前には大きなスクリーンも設置されている。)それから、座席はツアーの方で希望通りの座席割りを確保できなかったとのことで当初母とは別々になった。別に自分はどちらでも良かったが、片道12時間ものフライトを経験したことがない母の方がちょっと心配だった。そしたら、母の隣に座っていた海外旅行に旅慣れているようである日本人女性の方が席を代わってくれるとのことなので、代わってもらうことにした。座席を代わってもらうと隣に男性がいたが、私と同じツアーの方だった。この方も60歳を超えていて、私の父親と同じぐらいの歳だった。(以後、この方をNさんと呼ぶ。)Nさんは、この歳にもかかわらず、最近あったフルマラソンで3時間50分ぐらいで走ったというから、中々の健脚の持ち主である。とても気さくな方で、会ってすぐであるにもかかわらず、いろいろ気軽にお話しすることができた。ボストンまでの道のりは、成田からニューヨーク(ニューアーク空港)まで直通の後、乗り継いで行くという空路になっている。それにしても、やはり日本からニューヨークまでは長い!今回も12時間半かかり、狭いエコノミークラスの座席で疲れながら、ニューアーク空港へ到着した。過去2回のニューヨークはジョン・F・ケネディ空港だったので、ニューアーク空港は今回が初めてである。この後、ボストン行きの飛行機に乗り継ぐが、その前に入国審査がある。過去2回のニューヨークへ来た時の入国審査は入国目的を答えるだけだったが、5年前のテロの影響で今は指紋と顔写真が撮られるようになった。ちなみに5年前は、テロのたった2ヶ月後という時期に現場のニューヨークにニューヨークマラソンを走りに行ったが、今よりはるかにテロに対する警戒心が強かったと思われるにもかかわらず、指紋、顔写真撮影ともになかった・・・つまり、テロから間が無さ過ぎたので、まだそのような対策を取れるような体制になっていなかったのである。
 |
 |
シェラトンホテルのロビー |
プルデンシャルセンター内 |
ニューアーク空港に着くと外は雨が降っていて、今後の天候が気になった。ボストン行きの飛行機に乗るまでに少し時間があるので、ニューアーク空港内のファストフード店でアイスクリーム(ハンバーガーはちょっと胃に重たかったのでやめた)を食べて時間を潰すことにしたが、ここで今回の旅行で初めての英語での注文となる。やはりちょっと緊張したが、無事注文することができた。ファストフード店で時間を潰した後はボストン行きの飛行機に乗り、ボストンに着いたのが午後8時。その後、ホテルに向かうためバスに乗った。もう外は真っ暗で外はよく見えないが、それでも初めて来た土地なので初めて目にする風景ばかりである。やはりこういうときはなんだかワクワクする。ボストン市街に入ると、桜がたくさん咲いていて、またセブンイレブンもあり、日本でもお馴染みの風景をお目にすることができて意外だった。(セブンイレブンはもともとアメリカ発祥のコンビニなんだから、ここにあっても全然不思議ではないが。)そしてホテルに着いたのが9時。考えて見ると自宅を出てからホテルに着くまでほぼ24時間かかったことになるから、本当に長い移動であった。ホテルはシェラトンホテルで、名の知られているホテルだから綺麗ではあった。(まあしかし洋風ホテルは、部屋に入るとある程度高級だろうが、基本的にビジネスホテルと変わらず、それだったら安いビジネスホテルで十分かなと思う。それにしても、洋風ホテルのあの薄暗い照明はなんとかならないんですかね。個人的には和室の方が好きです・・・ここはアメリカなんで、そんな要求は勿論通りませんが。)部屋に入ってテレビをつけると、いろいろ番組がやっていたが、イチロー、城島のいるシアトルマリナーズがボストンレッドソックスと対戦するためボストンまで来ているとのことで、野球にチャンネルを合わせたらその試合が放映されており、イチロー、城島ともにテレビに映っていた。時間も遅いし、なんだかもう外に出るのが億劫になってしまったが、夕食を食べに外に母と出ることにした。ボストンは初めてだし、当然右も左もわからないような状況であったが、シェラトンホテルから外に出ないでショッピングモール(プルデンシャルセンター)に行けるというので、その辺へぶらっと行くことにした。下調べでは、ボストン名物はロブスターだということはわかっていたので、シーフードレストランを探していたら、「Legal Sea Foods」という店があり、旅行ガイドにも紹介されていた店だったので入ることにした。
 |
ロブスター |
店に入ると、自分の英会話力の無さを嫌というほど味あわされることになった。空いている席に案内された後、ウェイトレスの人(結構きれいな人だった)が注文を取りに来たのだが、ここでまず何を言っているのか良く聞き取れない。あれだけ毎日CNNのテープ(実際には今の時代テープではなくMP3だが、わかり易いようにあえてテープと書きます)を聞いてきて、実際、ある程度聞き取れるようになったと思っていたのに・・・。黙っていてもしょうがないから、とりあえず飲み物を頼もうとビールを頼んだら、どうも相手に伝わらない。そうこうしているうち、そのウェイトレスの人があっちへ行ってしまって、戻ってこなくなってしまった。ひょっとして、訳のわからない東洋人が来て、愛想を尽かして放ったらかしにされてしまったのかと不安になった。そしたら、そのうちそのウェイトレスが戻ってきて安心したが、今度はメニューを見て何を頼んでよいのかわからず、また冷や汗が出てきた。日本だと、(ファミレスでは)どれかひとつ頼めば一人分が完結するが、こちらだとどうなるか勝手がわからない。とりあえずロブスターを頼まなければと思い、カップ(Cup)というのを2つ頼んだ。すると、出てきたのはほんの小さいカップにロブスターが少しだけだったので、これじゃダメだということでボウル(bowl)をひとつ頼むと、今度は本当にでかいロブスター丸々一匹をボイルしたものが出てきた。これは本当に凄い迫力で、これならロブスターをいただくという気がする。それからメニューにワインがあったのでワインを注文した。どうも最初にビールが通じなかったのは、そもそもビールがメニューになかったからかもしれない。(英会話力の無さが最大の原因ではあるが・・・。)食べる前に、せっかくだからとロブスターをデジカメで撮影しようとすると、ウェイトレスの人が私と母を一緒にロブスターを前にして写真を撮ってくれるというので、撮って頂いた。(デジタルビデオカメラに付属のカメラで撮ってもらったのですが、カメラの性能が悪く全然良く映っていなかったので、その写真はアップしてません。)それからロブスターを食べたが、当然殻付きなので、カニを食べるように殻を割って手でつかんで食べるので、手はベトベトになる。大きなハサミなど殻は硬いので、これを割るのに専用のくるみ割りのような殻割り器が付いてきたので、これで殻を割った。ロブスター自体はボイルしただけなので味は付いていないが、更にドレッシングのようなものが乗っていたので、これにつけて食べた。味は、ビックリするほどうまいという訳でもなく、まあこんなものかなという感じだった。
手を汚しながらロブスターを食べ終え回りを見渡すと、もう客がほとんどいなくなっていた。早く会計をしないとと思い会計の男性のところへ行くと、トータルで78ドルと言われた。これにチップは含まれているかと聞くと、含まれていないという返事。そして、ここアメリカではレストランで食事をするとチップを払うのが習慣であるから、チップを上乗せした料金をこの男性に払おうとすると、この男性はかたくなにその受取りを拒否するのである。こちらも途方に暮れて、もうチップを払わなくていいかなと、チップを払わないでそのまま店を出て行ってしまおうとも思ったが、会計明細に(なんと)日本語で「お支払いの際は・・・ご配慮願います」云々のくだりが書いてあったので、やはりチップは払わなければならないんだなと思い返しチップ抜きの料金で会計を済ませた後、ウェイトレスをしてくれた女性のところへ行き、チップとして20ドルを手渡した。すると、その女性の方は本当に嬉しそうにチップを受け取ってくれた。旅行ガイドに書いている相場によると、レストランのチップは料金の15%〜20%ということなので、今回の場合12〜15ドル程度となるが、それを考えると相場を結構上回る金額をチップとして手渡したことになる。しかし今回はあれだけ手を煩わさせてしまったわけだし、写真も撮ってくれてこちらも十分楽しめたのだから、まあこれでも良いかという意見に落ち着いた。それよりも、あのままチップを渡さないままでなくて本当に良かったという思いの方が強かった。店を出たときにはも夜中の12時を過ぎており、随分と遅くまで居たものである。その後はホテルに直行し、すぐに寝た。
4月15日 2日目
2日目は、マラソンコースの下見、兼ゼッケン受取り、兼ボストン市内観光が予定されている。朝早く寝坊したらいけないと目覚まし時計をセットしたが、結局目覚まし時計は全く役立たなかった。その時間になる遥か前に目が覚めてしまい、その後眠れないのである。5年前にニューヨークマラソンに出たときも同じことに悩まされたが、それはそのときの添乗員さんが「時差ボケにならないために現地に着いても夜11時までは絶対に寝ないでください」という言葉を破って、速攻で寝てしまったためだとそのときは信じていたが、どうもそれは違ったようである。今回、夜中の1時ぐらいまで起きていたにもかかわらず、やはり時差ボケの症状が出てしまい夜明け前に目が覚め、それから寝ることができなかった。時間が余っているから、シェラトンホテルの部屋に備えてあったコーヒーメーカーとパックのコーヒーでコーヒーを入れて飲んだりして時間をつぶした。コーヒーパックは、一泊3パック用意されており、この後も結構重宝した。それから、今の日本では普通にある冷蔵庫がアメリカのホテルにはないのには困った。おかげで、翌日の朝食べるものをスーパーで買おうとしても腐ってしまってはいけないので、買うものが非常に限られてしまった。
朝になり、コース下見の前にまず朝食を取ろうということでホテルのロビーへ下りた。そこに、このツアーに参加された方の男性の2人連れがいて、その人達はホテルにある店で使える食事券を持っていた。我々は今回のツアーでは、ツアーのコースに入っている食事以外は申し込まなかったので食事券は持っていなかったが、とりあえずそこに一緒に入ろうということになって、その店に一緒に入った。そして、店のレジの女性に予約は取っていないがいいか聞こうとしたところ、こちらの英会話力の無さから相手とのコミュニケーションがよく取れず、こちらが伝えたいことがよく通じない。前にも書いたが、まず相手の言っていることがよく聞き取れない。そして本当に簡単な表現でも、日頃そのようなトレーニングをしていないため瞬時に言葉が出てこないのである。結局その女性が奥の店の主と思われるおばあさんのところへ行き相談し、そしてOKになった。食事の内容は、バイキングであり日本でもお馴染みであるが、日本と違うところはメニューの内容が極めて貧弱なことである。日本ではないから日本のホテルのように日本食がないのは当然として、数種類のパンと、ソーセージ、スクランブルエッグ、カリカリベーコンぐらいしかない。日本での結構豪華な内容に慣れているだけに、この貧弱さにはちょっと面食らった。食事をしていると、おばあさんが話しかけてきて、以前日本人旅行者から教わったと思われる日本語の挨拶表現とその意味が書いているメモを取り出し、聞いてきた。その中で、「Gomenne」が「Excuse Me」とメモしてあり、それは違うから「Sorry」ですよと訂正してあげた。食事を終えてから、食事券を持っていなかったので清算しようとすると、おばあさんは結構だと言う。ひょっとして後で請求されるのかなと思って、そのときはそのまま出て行った。(結局、ホテルのチッェックアウト時にその朝食代は請求されなかった。得したともいえるが、なんか後味が悪かった。)それから余談であるが、店のレジの女の人と話した時に女の人が言ったことがよく聞き取れなかった(本当にネイティブの人が普通にしゃべる言葉がよく聞き取れないんですよね)ので、こちらが思わず顔をしかめながら「ハぁ?」と言うと、露骨に嫌な顔をされた。考えて見れば、向うとしては普通にしゃべっただけなのだから、それに対して顔をしかめるというのは当然失礼に当たる。そんな対応を思わずしてしまったことを反省した。(こういう場合は、Pardon? と聞き返すのが正しい対応・・・しかし、慣れていないからそれが中々出てこないんですよね。)店を出るときに、その女の人が笑顔で挨拶してくれたので、ちょっとホッとした。

|

|
スタートを示すボード |
マラソンスタート地点 (2万人が走るのにこんなに狭い!) |
朝食を取った後一旦部屋に帰り、その後必要な荷物を持って、集合時間に合わせてロビーへ向かった。ロビーにみんなが集合した後、コース下見のためのバスに乗り込んだ。天気は、どんよりと曇っていた。コース下見はスタート地点のホプキントンからフィニッシュ地点のボストン市内までマラソンコースをバスで辿るものであるが、ボストンマラソンのコースはスタートからフィニッシュまでほぼ直線に近いので、ボストンからホプキントンまでの距離は40km程度離ある。そこに行くまでは高速道路を使った。ボストン市内を出るとビルがなくなり、家もまばらになってきて樹木が多くなり、これは今までアメリカでは見たことがない風景であった。考えて見れば、過去2回のアメリカは、マンハッタン島内、JFK空港とマンハッタンとの往復、および、ニューヨークマラソンのコースとなるブルックリンなどマンハッタンの周辺のみで、絶えずビルや建物があり、このような風景は経験したことがない。アメリカにもこういう場所があるんだな(当然といえば当然ですが)と思った。そして、ホプキントンに着いたが、本当にここは何もないところで驚いた。まさにド田舎という感じ(ホプキントン在住の方、すいませんm(__)m)。はじめに寄ったところはマラソンのスタート前にランナーが待機する会場となるホプキントン高校のグランドで、テントや仮設トイレが設置されていた。そしてマラソンのスタート地点に移動したが、いろんな仮設コーナーが設置されていて関係者もおり、マラソン開催が間近な雰囲気が出ていた。そしてマラソンスタート地点(ラインが引かれていた)を見たが、これには本当に驚いた。まず第一に、スタートをする場所の道幅が非常に狭いのである。幅は日本のそこら辺の普通の道路よりやや広めといったところだろうか。ボストンマラソンの参加人数は例年2万人ちょっとで、今年も2万2千人であり(10年前の100会記念大会の時だけは、3万8千人参加した)、110回とダントツの世界最古の歴史を誇り、これだけ有名なマラソンの割には現代としては決して多くない。私が過去2回参加したニューヨークマラソンは3万人出場するし、ロンドンやシカゴでは4万人近く参加する。これだけ伝統のあるマラソンがそれらの大会に比べて少ないのか疑問だったが、実際のスタート地点の道路の狭さを見て納得した。これじゃあ2万人でも多いなと正直思った。第二に驚いたのは、スタート地点の道の傾斜である。ボストンのコースはスタートからフィニッシュ地点まで139m下るため(国際陸連のルールでは、ロードレースではトータル距離の千分の1以上下っているコースはダウンヒルコース扱いとなる。マラソンでは42mまでしか許容されないから、ボストンはダウンヒルコース扱いとなる。)、トータルで下りのコースである。ただ、トータルで139m下るといっても42.195kmの長丁場だから、下りの一場面だけを見たら大したことないのではないかと思っていたが、これがスタートから結構な急斜がついているのである。そういえば昔、1987年のボストンで、当時の世界の強豪が結集した大会で瀬古選手が優勝したが、強豪の一人であったドキャステラ選手がスタート直後に転倒して、最初からレースに絡めないということがあった。今回ここでスタート地点を実際に見てみて、これならスタート直後、下手をすれば転倒するなと思った。ツアーには、現地在住の日本人の添乗員さんも同行していたが、その方がここにいる警官と交渉して、一時的にスタート地点の交通を止めてスタートライン上でツアーのみんなと集合写真を撮った。しかし、こっちの警察官は気前がいいし、ずいぶんと大胆なことをするものだ。スタート地点には「IT ALL STARTS HERE」というボードがあるが、それを前にしてツアーのみんなで集合写真を撮り、その後バスでコース下見に出た。
 |
心臓破りの丘試走 |
ボストンマラソンのコースは、前半は田舎の山の中の道を走るという感じで、人家それほど多くなく、ここに来る前に描いていたボストンマラソンのイメージとは随分違った。バスで走っていても下っているということがわかり、そんな感じだから、なんとなく青梅マラソンのコースと似ているような気がした。(そういえば、ボストンマラソンと青梅マラソンは姉妹提携をしていた。)家はやはり一軒一軒が日本の家より大きいので、日本で言えば別荘地のような感じである。コースの半ばに来ると家もだいぶ増えてきてややにぎやかになってきた。鉄道と平行する地点もある。このコース下見では、希望者参加の心臓破りの丘の試走も設定されており、それに参加することにした。走る場所は、心臓破りの丘が始まる最初の上がり坂あたりからで、そこで試走に参加する人はバスから降りて、フィニッシュ方向へゆっくりと走って行った。自分は上がTシャツ、下がジャージという格好で走った。デジカメを持ち撮影しながら走ったから当然ゆっくりだったが、この日は蒸し暑く、ちょっと走っただけでも結構汗をかいてきた。本番がこんなに暑かったらかなり辛いと思った。試走をする前は、確か走る距離は1.5kmぐらいだと聞いていたが、走っているうちにそれ以上あるような感じがしてきた。そしてバスは後ろから全然来ないから、とにかくバスが来るまで走らなければならない。そしてやっとバスがやってきて、我々を追い越して止まったので、そこでバスに乗り込んだ。結局走ったのは2.5kmぐらいだったようである。バスに乗ってまた移動を開始すると、心臓破りの丘を過ぎたすぐのところにボストン大学があった。その後、ボストンの市街地まではずっと下り勾配で、市街地に入りフィニッシュ地点まで行き、コース下見は終了。バスに乗っての実感でも全体的には下りの印象だが、想像以上にアップダウンがきついような気がした。
 |
 |
マラソン受付会場 |
 |
私のメッセージ |
クインシーマーケット(Tシャツを着ているのが私) |
コース下見が終了したら、そのままワールドトレードセンターのマラソン受付会場へ行く。ニューヨークマラソンもそうだが、こういうビッグマラソンは受付会場でマラソンエキスポを開催し、賑やかで華やかで良い。受付でナンバーカードなど必要なものを一通り受け取った後、大会のTシャツをもらえるので、もらいに行った。私は日本ではLをもらうのであるが、こちらはサイズの基準が違うのでLをもらうとぶかぶかになってしまう。Lをもらわないように「medium」と言って、Mをもらった。Tシャツは長袖Tシャツで、黒地でちょっと地味なものだった。その後、集合時間までまだ時間があるので、会場内をブラブラした。すると、ある一角に参加者のナンバーがずらっと掲示してあるボードがあった。見ていると、みんなそこにそれぞれメッセージを書いているので、自分も英語で「My first visit to Boston. I'll enjoy it.(私のボストンへの最初の訪問。ここを楽しむつもり。)」とメッセージを書いた。そして、時間が来たのでバスに戻った。受付が終わったら昼食を食べに、クインシーマーケットへ向かった。ここにあるレストランで食事を取るという。クインシーマーケットに着くと、店がたくさんあり、そこに人がごったがえしていた。すごく賑やかなショッピングモールである。雰囲気的には、USJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)でこんな雰囲気を味わえ、あるいは南大沢(といってもローカルすぎてわからない人多いですよね?)の雰囲気もこれに近いかもしれない。昼食は、結構歴史のあるというレストランで取った。食事は、クリームシチューにデニッシュのようなパンをつけて食べるのと、あとはサラダがついてきた。正直、特にうまいとも思わず、やはりアメリカの食事というのはこんなものなのかなという印象。こういうツアーに組み込まれている食事は、チップ等の心配をしなくてよく、そういう意味では気が楽である。特に前日のシーフード店でのドタバタがあっただけに、余計そんな気がした。(ただ、そんなお任せばかりだとやはり面白くない。失敗を含め、いろいろチャレンジしてこそ、やはり面白い。)食事が終わったら、集合時間までクインシーマーケットの中をフラフラ歩いて見て回った。特に買い物はしなかったが、賑やかで、午前中と違って午後は晴れたこともあって結構楽しめた。そういえば、ここにかつてボストンで4回優勝し、瀬古選手とも争ったあのビル・ロジャース(ロジャースはボストンの出身)のショップがあったが、時間がなく、中には入らなかった。

|

|
ハーバード大学構内 |
ジョン・ハーバード像の左足先を撫でる私 |
クインシーマーケットを出ると、今度はあの有名な(世界で一番有名?)ハーバード大学の構内見学である。ハーバード大学の構内に入ると、日本の大学のごつごつした鉄筋コンクリートの建物と違ってヨーロッパ風の煉瓦づくりの建物ばかり。また庭もきれいに整っていて、この辺に伝統と歴史を感じた。(実際、ハーバード大学の創立は1636年で、なんと徳川幕府の創立からたった33年後!)ここは、大学だというのに観光客がたくさん見学に入ってきていて、さすがに世界のハーバード大学という感じだった。一通り大学の構内を回った後、ジョン・ハーバードの銅像の前に来た。名前からしても何も知らない人はハーバード大学の創設者だと思うだろうし、実際、像の説明には「JOHN HARVARD FOUNDER 1638」と書いてあるから、そう信じてしまうだろう。しかし、この像には「3つの嘘」と言われる秘密があるとのこと。一つ目は、ジョン・ハーバードが実際には大学の創設者ではないこと。二つ目は、大学の創設が1638年と書いてあるが、実際の創設は1636年であること。そして三つ目は、この像の人物のモデルがジョン・ハーバード本人ではないこと。(当時最もカッコいい学生をモデルにしたとのことで、実際にジョン・ハーバードがどんな顔をしていたかは不明とのこと。)このジョン・ハーバードの像、なぜか左の足先だけピカピカに光っている。実は、観光客が左の足先を撫でていくので、そこだけ錆びないからである。ボストン在住の添乗員さんいわく、この像の足先を撫でるとハーバード大学へ復学できるとのことである。(ネットや本で調べると、足先を撫でると幸運が訪れると出ていたが、どちらが正しいかは不明。)ハーバード大学を出た訳でもない私が撫でたところで、ハーバード大学に復学できる訳ではないが、なんか良いことが起こったらいいなという気持ちで、私も足先を撫でた。(まあ、ハーバード大への復学云々といったら、ほとんどの観光客は関係ないわけだが、ほとんどの観光客が足先を撫でて喜んでいた。)ハーバード大学の構内見学が終わると、今度はハーバード大学の生協へ案内された。生協だから日本の大学の生協のように生活必需品が売っているのかと思ったら、入って見たらハーバード大学のロゴがシャツ、ジャンバーからグッズなど、ハーバード大学の記念品売り場という様相を呈していた。土産に何か買おうかと思ったが、やはり自分はW大学出身だから、「Harvard」という他大学の文字の入った服を着るのにどうも抵抗があった。ちなみに、ハーバード大学のカラーは臙脂(えんじ)で、W大と同じであり、ちょっと親しみを感じた。結局ハーバード大の生協では何も買わなかった。それにしてもハーバード大学の商売根性には恐れ入りましたという感じだった。

|

|

|
ジョンハンコックビル |
州議事堂 |
ボストンマラソン広告 |
 |
プルデンシャルセンター外観 (左端がブルデンシャルタワー) |
ハーバード大学の見学でこの日のツアーでのボストン市内観光は終わりで、その後ホテルへ戻った。ホテルに戻ってからは、まだこのホテルの回りの右も左もわからない状態だったので、近くに大きなスーパーもあるというので散歩がてら、ふらっとそのスーパーまで行くことにした。外に出て、ホテルがある一帯を眺めると、前日ボストンへ着いてから夕食を食べに行ったホテルと屋内でつながっているショッピングモールが、実はホテルと他の建物をつなげいて、その辺一帯の建物群(プルデンシャルセンターと呼ばれている)となっていることがわかった。その中には、プルデンシャルタワー(Prudential Tower)という高層ビルもあり、この一帯の中では一番高く目立つ。更に、この一帯から少し離れたところには、ジョン・ハンコックビルというボストン一高いビルがあり、ガラス張りでユニークな形をしていてきれいである。基本的にこの建物群の回りをぐるっと回っただけであるが、やはり最初は土地勘が全くないので、スーパーはホテルのすぐ近くだというのに、そこへ行くのに結構迷い、やっと着いた。スーパーはShawsという名前で、これは日本では聞かない名前である。ちなみに、このスーパーのすぐ横は、ボストン名物のガチョウの格好をした市内観光バスの発着所となっている。スーパーの中に入るとビックリ。日本のスーパーとは規模が全然違うのである。肉なんかは、日本では見たことがないほどの大きな塊が売っていて、それ以外にもとにかくひとつひとつの大きさがデカイ。食品を陳列している棚も、日本と違い自分の背よりもかなり高いところまであった。また、生きたロブスターも水槽で飼われて売られていた。いろいろ買って行こうかとも思ったが、まだ夕方だし、後で夕食を食べに行くと思っていたから、とりあえず水だけを買うことにした。売っている水の単位も大きく、1ガロン(3.78リットル)などというものもあった。とりあえず、そんな大きなものはいらないので、500mlのものを2本手に取った。(それにしても、こっちは日本と違って飲料といったら水かジュースで、日本にあるウーロン茶、緑茶のような甘くない飲料がないのには閉口した。甘くないものを飲みたいと思ったら、水を買うしかない。)水を持ってレジにで待って行ったら、これまた日本との習慣の違い、戸惑った。日本の場合は、レジにカゴを持って行くと、レジ係の人がカゴから商品を取り出して(バーコードチェック等をして)、金額をカウントし隣のカゴに入れていくが、こっちでは、客がカゴから商品を全て取り出し、レジの手前のベルトコンベアに置き、自分で置いてある仕切棒をとり、後ろの人の商品と区別するためにその間にその棒を置く習慣になっている。私はそんな習慣なんて全然知らないからボケーっと立っていたら、後ろに並んでいたお客さんが私の分までやってくれた。そんなこんなで水を買い、帰りはシェラトンホテルとつながっている例の屋内モールを通って帰ってきた。前日夜遅くに夕食を食べに出た時は閑散としていたが、この時間帯はかなりの人混みで、ここは実は結構賑やかな所なんだとわかった。ホテルの部屋へ帰ると、ベッドに横になった。ろくに寝れてないこともあり、かなり疲れていたせいか、横になっていたら完全に寝入ってしまった。結局その後、どこにも外出することもできず、なんとその日は母ともども夕食なしという羽目になってしまった。
それから、この2日間ボストンにいて気づいたことであるが、ボストンの歩行者用信号は、一部文字表示が残っていたものの、ほとんどが絵で表示されていたのである。渡ってよいというサインが人が歩いている絵で、渡ってはだめというサインが、手のひらを前に出して、ストップと示している絵である。5年前と13年前に行ったニューヨークでは、全ての歩行者用信号が、渡ってよいが「WALK」、渡ってはだめが「DONT WALK」だったので、これがボストンとニューヨークとの違いなのかなと、このときは思った。また、以前ニューヨークに行ったときの歩行者の信号無視し放題には驚いたが、ここボストンでもニューヨークほどではなかった気がしたが、歩行者の信号切替前のフライングはデフォルトだった。たった2つの都市だけなのでなんとも言えないが、どうもアメリカの歩行者というのは日本ほど信号を守る意識がないようである。
4月16日 3日目
3日目の予定は、午前中は国際フリーダムラン、午後は自由行動となっている。国際フリーダムランは、ニューヨークマラソンの国際フレンドシップランと同じで、マラソンレース本番前日に、街の中数キロをランナー達が時間を気にせず楽しみながら走るというイベントである。(なぜボストンではフリーダムランと名付けられたのか確認してないが、ボストンはアメリカ独立由来の地であるからのような気がする。そういえば、ボストンにはフリーダムトレイルという、アメリカ独立の足跡を巡る観光ルートがある。)フリーダムランは朝8時のスタートで、ツアーのメンバーとホテルのロビーに7時半の集合になっていた。前日の夕食は何も食べておらず、かといって食べ物も何も買っていなかったが、日本からアメリカにはないであろうと煎餅と和菓子を持ってきていたので、それで腹ごしらえをした。
ボストンのフリーダムランのコースは、マラソンのフィニッシュ地点があるボストン公共図書館前からボストンストリートを東へ進み、ボストンコモンパーク脇を通って州議事堂の前を通過し、ビーコンストリートを通って戻ってくる左回りの約4kmのコースである。前日までとはうって変わって快晴で、やはりこういうお祭り騒ぎは、どんよりとした曇り空(5年前のニューヨークマラソンはあいにくの雨天だった)よりは、快晴が一番いい。スタート地点は、ジョンハンコックビルの陰に隠れて日陰になっていたが、そのせいでジョンハンコックビルがそびえる姿が目立っていた。スタート地点にはたくさんのランナー達でごったがえし、すごい熱気。これはニューヨークマラソンの時と変わらない。5年前のニューヨークのときもそうだったが、マラソン本番ではデジカメは持たないものの、前日のフリーダムランではデジカメを持って参加した。受付では、フリーダムラン用のナンバーカードと、参加Tシャツをもらった。ただ、前日のマラソンの受付と違ってサイズを指定する余裕がなかったので、もらったサイズはLだった。(日本なら自分にとってちょうど良いサイズだが、こちらは基準が一回り違うので、ブカブカになってしまう。)受付の後は、スタートを待つだけとなった。ニューヨークでは走る前にセレモニーがあるのだが、ボストンではなかった。そしてスタート、予定通り写真を撮りまくりながら走った。静止画を撮ったり、あるいはときおり立ち止まって動画を撮ったりしながら、ゆっくり走り、十分楽しんだ。州議事堂には桜がたくさん咲いており、きれいだった。それにしても、こうやって時間をかけて余計なことをしながらゆっくり走ると、距離が結構長く感じる。とてもたった4kmしかないとは思えなかった。走り終わると、朝食をもらうために列に並んだが、韓国から来たツアーの人たちも並んでいた。韓国の人も、こういうツアーに参加するようになったんだなと思った。朝食の中身はベーグルにバナナ、ヨーグルトなどで、ニューヨークマラソンの国際フレンドシップランでもらう朝食と同じような内容だった。

|

|

|

|
フリーダムランスタート前 |
シアター街を走る |
ビーコンストリート上 |
朝食受け渡し所 |
フリーダムランが終わると昼近くになっていて、自由行動はほとんど午後になってからという感じになった。どこに行こうか迷ったが、ボストンではボストン美術館が有名で、しかもホテルから歩いて行けるほどだったので、まずはボストン美術館に行くことにした。その前に、前日一人で行ったShawsというスーパーがかなりの迫力だったので、それを母にも見せようと思って、まずそこへ行った。やはり母も、日本にはない迫力の大きさのものに圧倒されていた。そして、それから美術館へ向かった。途中、スターバックスがあった。こちらでは公共のトイレが少ないというので、あらかじめ用を足す意味もあって、とりあえずここに入った。それにしても、以前ニューヨークに行った時から気づいていたが、アメリカには本当にスターバックスが多く、いたるところにある。しかし以前は一度もスターバックスに入らなかったし、恥かしながら日本でも一度もスターバックスに入ったことがなかったので、実は今回が初めてのスターバックスである。コーヒー(ブラック)とパンを頼んだが、別に普通のコーヒーショップだった。ただ、サイズは日本と違って、Sサイズを頼んだがこれが、日本でいえばMサイズ相当だった。やはりこちらはあらゆるものが日本よりひとサイズ大きいようだ。初日にレストランでメニューを頼もうとしたときは、メニューの品を発音しようと試みていたが、この時点になると、カウンターに陳列してあるパンのうち欲しいものを「this one」と指差して注文するようになって、自分でも結構大胆になってきて慣れてきたなと思った。それから、トイレに入ったが、アメリカではトイレのことをRestroomという。そういえば、本当にどこへ行っても表示がRestroomだった。(過去2回アメリカに来た時は、なぜかこのことに全然気がつかなかった。)
スターバックスを出てから歩くと、すぐにボストン美術館に着いた。表には、インディアンが両手を広げて馬にまたがった像がある。美術館自体の大きさは、あまり他の美術館のことを知らないのでなんとも言えないが、まあ大きい方と言っていいのではないか。写真はフラッシュ無しならOKとのこと。美術館に入って最初のコーナーが、ピカソとその関連の絵の展示だった。私は、正直言ってピカソの絵のどこが良いのか全然わからないのだが、せっかく入ったからと一応丁寧に見た。全てこんな感じだったら嫌だったが、その後、古代文明の装飾品などの展示が出てきて、結構楽しめた。それから浮世絵がたくさん展示されていたが、旅行ガイドで見ると、このボストン美術館は、日本以外では浮世絵を最も保有しているとのことである。そのうち腹が減ってきたので美術館にあるレストランに入った。初日にレストランに行ったときは、こっちの英語力の無さにもかかわらず相手のペースに合わせようとして散々だったが、2日過ごしたことによってこちらもちょっと慣れてきて、ウェイターが話しかけてきたことが良く聞き取れなかったときに、「Please speak more slowly(もっとゆっくり話してください)」と要求すると向こうももう一度ゆっくりしゃべり直してくれて、対応にも少々余裕が出てきた。初日はメニューが出てきてどういう手順で頼めばいいか戸惑ったが、その後ホテルで持ってきた旅行ガイドを見て、前菜(Appetizer)→メインディシュ→デザートという順番で頼めばいいことを確認したので、今回はスムーズに頼むことができた。メニューは、前菜にロブスターのスープ、メインにサーモンのステーキを頼み、デザートは頼まなかった。食事を済ませた後は、このときもウェイターにチップを払うのかどうかどうも判断がつかず、迷った挙句に会計を済ませた後にウェイターにチップを渡したら、このウェイターも嬉しそうに受け取ってくれた。やはりチップをあげて正解だったとホッとした。レストランを出たら、古代エジプトの装飾品などを見たが、中世ヨーロッパ絵画を見ようとしたところ、まだ5時になっていないというのにもう閉館とのこと。結局ヨーロッパ絵画は見れずに美術館を出ることになった。

|

|

|

|
ボストン美術館 |
浮世絵 |
エジプトの壁画 |
美術館内の様子 |
ボストンにはTと呼ばれている地下鉄があり、地上に出て走る区間も多い。ボストン美術館の前にこの地下鉄が通っているので、帰りはこれに乗って帰ろうかと思ったのだが、あいにくトイレに行きたくなってきた。(美術館の中にトイレがあったので、美術館から出る直前に入っておくべきだった。)しょうがなく、トイレを借りるために飲食店を探したが、美術館に来る時に入ったスターバックスの隣に日本でもおなじみのダンキンドーナッツがあったので、行きとは別の店にしようと、今度はそこに入った。まず最初にコーヒーを頼み、その後トイレ(Restroom)があるか聞いたらないとのこと。しょうがなくコーヒーを飲むだけにしたが、そのコーヒーはなんとミルクと砂糖が入っていた。スターバックスではブラックで出てきてその後お好みでミルクと砂糖を入れる方式で、これが普通だと思っていたから正直いってたまげた。私は普段コーヒーはブラックで飲むので、この甘ったるいコーヒーを飲むのは辛かった。ダンキンドーナッツを出た後は、もうトイレを我慢するのはかなり辛い状態で、この後地下鉄を待つよりは、直接歩いてホテル帰って部屋のトイレを使ってしまった方が早いので、結局歩いてホテルへ帰ることにした。
ホテルの部屋に帰ってトイレを済ませた後、美術館1つを回っただけなのに結構疲れてしまい、しばらくベッドの上で横になっていた。時間的にはまだ6時でまだ時間があるし、美術館1ヶ所だけしか行かないのはもったいないので他にも行こうかとも考えたが、美術館を回って意外と疲れてしまったこと、部屋に入ってゆっくりしたら、再び遠出するのが億劫になってしまったこと、明日にマラソンレース本番があり、あまり無理できないことから、結局出かけないことにした。5年前にニューヨークで地下鉄に乗って以来、その地の公共交通機関を利用するのは、そこの生活を肌で実感できるとわかったので、ボストンでもぜひ利用したいと思っていたのだが、こんなことがあり結局それはかなわないこととなってしまった。
この日は、夕食は外に食べに行かずに、前にも述べた近くにあるShawswというスーパーで寿司(にぎり寿司と巻き寿司)を買ってきて食べた。味は日本で売っているものと特に変わりはなかった。向うの巻き寿司は日本のように海苔を外側に巻くのではなく、ご飯の中に丸め込むという感じで外側には海苔がなく、ちょっとしゃれた感じである。それからShawsでビールも買ったが、アメリカでは州によって飲酒に関する法律が違い、ボストンでは21歳以上でなければ飲酒が許されておらず、酒を買う際にIDの提出が求められるという。Shawsでビールを買ったときも、レジでやはりIDの提出を求められたためパスポートを見せたら、何か打ち込んだ(生年月日を打ち込んで、年齢を確認したのか?)後、買うことを許された。
4月17日 4日目

|
コースマップ |

|
コース高低差図 |
いよいよ、ボストンマラソン本番。といっても、今回は写真を撮りながら楽しみながら走る予定なので、別に緊張感や意気込みのようなものはない。また、5年前のニューヨークマラソンは、脚の故障でろくに練習ができず、また当日膝痛をかかえていて、レース中いつそれが爆発するかという不安も抱えていたが、今回はそれもない。直前になって風邪を引いてしまい、当初予定していた量の走り込みはできなかっが、それでも完走できないという程のものでもない。私の母ら、応援組はコースの24マイル地点で、ツアーの添乗員さんとともに沿道から応援するとのことなので、レース参加組とは朝から別行動である。我々レース参加組は、マラソンのスタート地点に行くバスに乗り込んだが、意外だったのはこのバスがツアーが用意したバスだったことである。ニューヨークマラソンでは、スタート地点に行くのには大会主催者が用意したバスだったからである。ただ、スタート地点に行くまでに同じ方向に向かうスクールバスを何台も見かけたので、これがボストンマラソン主催者が用意した送迎バスで、申請すれば、我々のように独自に用意したバスも使えるのだろう。

|
スタート前(右端が私、中央がSさん) |
スタート地点の会場に着いて完全に失敗だったのは、防寒対策を全くしてこなかったことである。持ってきた衣類はTシャツ、ランニングシャツ、ランパンに上下ジャージのみ。前日、前々日が暖かいというか暑いぐらいだったので、ついつい油断してしまったのだが、この日は気温が結構低く、このままじっとしていると本当に体が冷え切ってしまいそうだった。ツアーの他の人達はウィンドブレーカーなど着ていて、防寒対策がなっていなかったのはツアーの中では私ぐらいだった。日本を立つ前に、防寒対策でいろいろスーツケースに詰め込んできたのに、こんなときにこんなチョンボを犯すなんて、なんて間抜けなんだろうと思った。会場についたのは朝の9時で、スタートまで3時間以上あり、このまま我慢し続けるのはかなり辛い状況だった。幸い、この日は曇りがちだったものの時々日が差したので、そのときに暖かくなってくれたため、どうにかこの長い時間を過ごすことができた。会場には、ニューヨークマラソンと同じように勝手に取ってよい朝食が用意されていたので、これを取って食べた。中身もベーグルにコーヒーとニューヨークマラソンと同じようなものだった。会場には、ケニアからあのモーゼス・タヌイ氏が来賓として招待されていて、壇上に立ち、会場のみんなに挨拶していた。タヌイ氏は、15年前に開催された東京の世界陸上1万メートルで金メダルを取り、ハーフマラソンでは93年に史上初めて1時間の壁を破り、ボストンマラソンでも過去2度優勝している。また93年の世界陸上1万メートルでは、その後世界長距離界の皇帝として君臨することになる、当時駆け出しのエチオピアのハイレ・ゲブレシラシエと優勝を争い、最後の1周で接触して靴が脱げてしまうという珍事も起こしており、まさに陸上長距離界の名シーンに名を残す名ランナーである。会場のランナーたちはあまりタヌイ氏には興味がないようであったが、私はタヌイ氏の偉大さを知っているので、壇に近づいて、持ってきたインスタントカメラでタヌイ氏の写真を撮った。レースまでは結構時間が長いので、2日目にホテルのバイキングで朝食を取った男性2人連れのうちのひとりのSさんと結構話をした。最初、マラソンのタイムを聞かれたので、私は3年前にサブスリーを出していたので、少々自慢げに2時間59分ですと言ったら、Sさんのベストはなんと2時間46分だとのこと。ツアーの人達はファンラン風の人が多かったので、これにはちょっとビックリした。そして私が元々中距離をやっていたと言うと、Sさんも中距離をやっていたのだという。1500mのタイムを聞かれたので4分41秒だと答えると、じゃあ800mはだいたい2分10秒ぐらいかなと、なんと私の800mのタイムもほぼ当てられてしまった。Sさんは、一時走るのをやめていて壮年になって再び走り始め、レースでの壮年の部では常に上位を争っていたかなりの猛者だったのである。今回のボストンマラソンは60歳になった還暦記念で出場したとのこと。さすがに今はもうそんな走りはできないとのことであった。それから、アフリカのランナーは日本人とは違うみたいなことを話していたら、そのうちSさんが1980年代に中長距離界の王様に君臨したモロッコのサイド・アウイタの走りが大好きだったと言ったので、私もアウイタの大ファンだったので、すっかり意気投合してしまった。

|

|

|
スタート直前 |
スタートシーン |
スタートラインを通過する私 |

|

|
スタート直後の風景 |
ランニング中の私(前半) |
ボストンマラソンのコースは、前にも述べたとおりかなり狭いので、スタート時はいつも大混雑となる。今回110回大会記念を契機に、混雑緩和のために時差スタートが採用された。男子のエリートら速い人たちを含む半分が12:00スタートで、あとの半分が12:30スタートになった。それから、最近女子マラソンのトップが男子選手と併走しない女子単独レースというのが世界で強調されるようになったので、この大会でも女子のエリートのみ男子に先だって11:30にスタートとされた。私は12:30スタート組に入った。ニューヨークマラソンと同じように、走るときに身に着けるもの以外は、荷物輸送バスに預けて、スタートラインに向かった。ニューヨークマラソンでは、スタート地点がかなり広いのでランナーたちも一同に介することができ、スタート時の号砲もはっきりと聞こえるが、ここはスタート地点までかなりあるので、いつスタートが切られたか全然わからない。時計を見ると、とりあえずもうスタートは切られたはずだから、あとはランナーの列が動くのに従って動くしかない。ランナーの列に従ってスタートラインまで向かって、スタートラインを横切ったのは、スタートからほぼ15分近く経ってからだった。スタートラインを横切ってからも、混雑のため半分歩くような感じで走り出した。記録を狙っているときは、こんなときはものすごくいらいらするのだが、今回は楽しむために参加しているので、いらいらすることはぜす、まあ回りの流れに身を任せて走り、いい風景があれば、そこで写真を撮っていくことにした。スタートしてからのコースはコース下見でも確認しているが、実際に自分の脚で走ってみてもかなりの下りであることがよくわかる。そして、下りが終わったと思ったらすぐに上りになり平坦なところがあまりなく、全般的には下りながらまさにコースが波打っているという感じである。沿道には、下見時はこの田舎のホプキントンあたりは全然人がいなかったのに、レース本番となるといたるところに人が集まってきている。さすがに世界で最も伝統を誇るボストンマラソンだ。Tシャツの上に、早大陸上同好会OBで作った稲穂AC(今は活動無期限休止中)のユニフォームを着て下はランパンで走ったが、走る前は防寒対策不足で本当に寒い思いをしていたものの、走り出したらちょうど良い気温だった。5kmの通過はネットタイムで29分台で、最初ノロノロだったし、こんなものかなと思った。

|
走っている途中に撮ってもらった写真 |
その後、普通のロードレースと同じように回りのランナーとは多少スペースが空いてきて、普通に走れるようになった。まあとにかく今回は楽しむのが目的だから、走りやすくなったからといってスピードを上げるようなことはせず、自分のジョギングペースを守る。結果的にはノロノロの部分がなくなったため、5kmから10kmのスプリットは26分台に上がった。沿道には確かに応援の人出が多いが、やはりまだ田舎のせいか、いたるところにバンドの演奏があるニューヨークに比べると、どうしても迫力、賑やかさでは劣ってしまう。また田舎を走るため、回りに茂みがあるところがあり、そういうところは沿道に応援の人が来れないので、所々に応援が途切れる場所があり、そこがニューヨークマラソンとは違う。しかし、こっちとしては逆にそれが好都合で、そういう場所で3回トイレ代わりに用を足させてもらった。私はこれまで15回フルマラソンを走っているが、サブスリーで走ったときは奇跡的にマラソンの最中トイレに行かずに済んだのだが、それ以外は全てトイレへ行っている。確かに仮設トイレがすぐわかるレースもあるが、どこにあるかわかりにくいレースや、あっても混雑で列ができているところもあるので、こういう場所があると好都合である。(本当は、こんな所で用を足したらいけないんだろうが・・・。)それから、私が茂みで用を足している最中、なんと少し離れた所に女性のランナーがいて用を足していた。いやはや、こちらの女性は大胆である(この女性が必ずしもこちらの方とは限らないが)。それから立ちしょんから道に戻ってきた白人のおっさんランナーに出くわして、頭に日の丸に必勝と書かれている鉢巻をしていたので、ちょっとビックリした。(自分は日本人だし話しかけてみようかとも思ったが、ちょっと機を逸してしまった。)走っている最中、32枚取りのカメラの残り枚数を考えながら写真を撮っていたが、やはりこのレースに出ていたという証として、自分の写真も欲しい。5年前と同じように、沿道で写真を撮ってもらえそうな人を探しながら走った。やはりいかつい人や、ムスッとしている人はなんとなく頼みずらい。結局沿道にいた白髪のおばあさんに頼んで写真を撮ってもらった。15km地点には湖があり、どちらかというと同じような風景が続くボストンマラソンのコースの中では、印象に残る場所である。その後は、ボストンマラソン名物、ウェールズレー女子大の前を通る。この大学は、あのクリントン元大統領夫人のヒラリー・クリントン上院議員の出身大学であるが、ここの前を通るととにかくすごい。ここの女子大生が大挙して大学前の沿道に繰り出し、黄色い声援を送っているのであるが、とにかくすごい音量である。正直、耳が痛くなるほどだった。私の大学の先輩がかつてボストンマラソンに出たことがあり、ここのことは伝えられていたが、まさかこれ程とは思わなかった。コースのすぐ横には鉄道も通っている地点もあり、たまたまそこに居合わせた列車がわざわざ汽笛を鳴らしてランナーに合図をしていた。こういうのは日本では見られず、お祭り好きなアメリカ人ならではである。
そうこうしているうちに中間点まで来たが、タイムは1時間56分台で全然無理もしてないし、これなら3時間台では走れるかなと思った。ここまで走ってきて実は失敗したなということがあった。それは、自分が日本人であるということを示す目印をどこにも付けていなかったことである。走っている最中、さかんにチャイナあるいはチャイニーズと呼ばれるのだ。日本人から見れば、日本人と中国人はたいがい区別がつくが、ボストン(アメリカ)で多くを占める白人にとって、日本人だろうが中国人だろうが、同じ東洋人にしか見えないので、中国人に間違われたのだろう。走っている最中、そう呼ばれるのは気持ちが良いものではなかった。私は別に中国人を嫌っているわけでもなけれ差別しているわけでもないし、そういう次元からこの不快さが来ているのではなく、単純に自分自身のアイデンティティが正式に認識されていないことから来る不快さだと思う。実はこういう経験は5年前のニューヨークマラソンでも経験していて、そのときはこの経験を次に生かそうと思ったにもかかわらず、5年という歳月が思いを忘れさせてしまった。思えば13年前にニューヨークマラソンに参加したときは、(ツアーから、外国では自分が目立つようにアピールした方がいいと言われていたため)日の丸の鉢巻を付けて走ったせいか、中国人と間違われたことはなかった。日本国内ではこんなことは普段全く意識しないが、自分が必ずしも日本人と認識されない外国では、自分が日本人であるということをアピールする必要性を痛感した。そういえば、マラソンに参加していた韓国のツアーの人たちは、ユニフォームに「Korea」と表示していたし、ユニフォームに「Belgium(ベルギー)」と表示して走っていた白人の人もいた。今度自分が海外マラソンに参加するときは、必ずユニフォームに「JAPAN」と表示して走ろうと強く思った。走っている最中、中国人と呼ばれてばかりだったので、たまに「頑張ってください」と声をかけられるとかなり嬉しかった。沿道に日の丸の旗がはためいているのを同胞を見つけた思いがして、私もそちらに近づいていって、「ここにも日本人がいますよ」と自分をアピールしたりしていた。

|

|
心臓破りの丘付近 |
ボストン大学前 |
ボストンマラソンは、33kmあたりに名物の心臓破りの丘がある。ボストンマラソンについてほとんど知識が無い人でも、心臓破りの丘だけは知っているだろう。それ程有名なポイントである。ここをぜひ写真に撮っておきたいと、25km過ぎから心臓破りの丘が始まると思われるポイントを探したが、これがなかなかわかりにくいのである。コース下見で、心臓破りの丘を試走したが、そこと似た風景があったのでそこで写真を撮ったが、その後走っていると、試走した地点には歩道があったのにここにはないと、どうもここは試走した地点とは違うことに気づいた。残りの写真の枚数も少ないし写真を取りまくってしまったらフィニッシュに着くまでにフィルムがなくなってしまうので、慎重に風景を見ながら走っていると、今度はまさに試走をした風景が目に入ってきたので、それを写真に撮った。心臓破りの丘を越えると、きれいなボストン大学の校舎が現れるので、これも写真に撮った。心臓破りを超えてからはずっと下り坂続きで、疲れた脚にとってはむしろ下りの方が脚に来て、正直、かなり辛くなってきた。25kmを過ぎるとスプリットもずっと29分を超えてしまって、ハーフ地点では楽観していた3時間台でのフィニッシュが微妙になってきた。35kmあたりでブルックリン地区に入り、ここから後は平坦なコースとなる。沿道にも人があふれ出すようになり、YMCA(日本で昔、西条秀樹がヤングマンとして歌っていた)の音楽が流れていたりとかなり賑やかになった。自分の母を含めたツアーの応援の人達は24マイル(約38km)地点で応援しているとのことだったので、この辺から沿道を慎重に見ながら走り、応援している人達を見逃さないようにした。幸い、日本人は旅行をする際、必ず戦国時代の武将が掲げていたような幟(のぼり)を目印とする習慣があり、私が参加したツアーでも例に漏れず幟を掲げてくれていたので、すぐに見つけることができた。コースの左側すぐに地下鉄が通っているので、これに乗って来たようだ。ここには添乗員さんはじめツアーの人達がいたので挨拶をしたが、どうも私の母がいないのである。添乗員さんに聞いたところ、私の母コースの反対側に行ったとのことでいったん少し引き返して反対側を見渡したが、これだけ人が多いとちょっと見つけるのは難しい。結局見つけるのをあきらめて走り出した。(後で母に聞いたら、トイレに行くために反対側に渡ったら、ツアーの他の人からこっちの方が良く見えると言われたので、反対側でずっと見ていたという。実は私に気がついたのだが、私がなんだか真剣そうな顔をしていたので、声をかけるのをためらったとのこと。)

|

|
ランニング中の私(後半) |
ツアーの応援の方が撮ってくれた写真 |
24マイル地点を過ぎると、フィニッシュまであと2マイルちょっと。1km表示のときに比べて距離が進むのが短く感じた。そして、いよいよフィニッシュまで数百メートルとなる直線に入った。沿道にはすごい数の人が詰めかけている。フィニッシュに向かう前、横に宿泊しているシェラトンホテルが見えたので、それを写真に撮ろうと立ち止まったところ、異変に襲われてしまった。ふくらはぎを攣ってしまったのである。今までずっと走ってきて脚の筋肉がかなり疲労している状態で、急に違う動きをしてしまったからであろう。走ろうとしても走ることができない。しょうがないから脚を引きずって歩くと、沿道から英語で「頑張れ」という意味の言葉をさかんに投げかけられた。しかし、そうは言っても走れないから、走れるようになるまでしばらく歩き、やっと走り出したら、今度は沿道から拍手を送られた。後はゴールまで突き進むのみ。フィニッシュ直前では、「Hiroshi Yokouchi from Tokyo.」とアナウンスされて、ちょっと感激してしまった。フィニッシュ時は両手を上げながら、5年前は顔を下に向けてしまったため、そのことを考えて顔を上げ続けることを意識してフィニッシュ。タイムは4時間02分03秒で、5年前のニューヨークマラソンに次ぐ自己ワースト2番目の記録。結局4時間を切れなかったが、直前で脚を攣って歩いてしまったのが結構大きかった。まあ、今回は楽しむために走りに来たので別に4時間を切れなくても気にはしないが、最後脚を攣ってしまったのは、ツーに参加する直前に風邪を引いてしまって5日間全く走れない期間があったことが影響したと思う。フィニッシュ後は、沿道にいたおばさんに頼んで写真を撮ってもらったら、そのおばさんは親切で向こうからもう1枚といって余分に撮ってもらった。走り終わったあとは、ニューヨークマラソンと同じように保温のためにアルミのシートにくるんでくれたが、なんとそのシートにはマラソン受付会場の壁に掲示してあった、ランナーのナンバーとメッセージを書き込んだものの一部を切り取って拡大したものだった。ただ、カメラのフィルムはもう残ってなく、残念ながらこれを写真に撮ることはできなかった。スタート地点で預けた、ここまで輸送車で運ばれてきた荷物を受け取った後、ホテルはすぐ近くにあるのでそのまま歩いて帰った。歩いている途中、おっさんが話しかけてきてタイムを聞かれたので、4時間かかったと答えたら、「Good Job」と言ってくれた。こっちもせっかく話しかけてくれて、それだけで話を終わらすのももったいないので、私が昔ニューヨークに行ったことがあるが、ボストンの方がナイス(本来比較級のnicerを使うべきなのに、やはりとっさに出てこないため、niceとなってしまった。)だと答えたら、そのおっさんはボストンと言って親指を上に立て、ニューヨークと言って親指を下にして、結構嬉しそうだった。おそらくボストン在住の人なのであろう。

|

|

|
ブルックリン地区 |
脚を攣りながら撮ったシェラトンホテル |
フィニュッシュする私 |
ホテルに帰った後は、まずシャワーを浴びて汗が蒸発して塩だらけになった体をきれいに流した後、ツアーの参加者で行う完走パーティーに参加した。過去2回のニューヨークでは(ツアー主催者は違うが)ともに日本食だったので、今回も日本食かなと思っていたら中華料理で、ボストンにある中華街の中華料理屋で行った。料理の中にはロブスター料理もあり、ロブスターを切り刻んで、味付けして炒めた料理で、初日に食べたロブスター料理(というより、ただの姿煮)とはかなり違っていて、なるほど中華料理だなという感じだった。それ以外にも料理がたくさん出てきて、もうレースが終わったことだし好きなだけ食べようと思ったが、ちょっと食べただけで腹一杯になってしまった。他の方もあまり食が進んでいないようで、結局かなり余ってしまった。フルマラソンを走るとやはり相当体に来るので、みな内臓がかなり疲れてしまって食が進まなかったのかもしれない。ビールは中国ビールとハイネケンだけだったが、中国ビールの方はやはりどうも日本人の口に合わなかった。今回の完走パーティーは、4つぐらいのテープルに分かれて、そのテーブルごとにワイワイガヤガヤやったのだが、全体で自己紹介や、今回のマラソンやツアーの完走を述べたりする場がなく、5年前や13年前のニューヨークマラソンでは全体の進行があったので、その点がちょっと物足りなかった。

|

|
完走パーティーの様子 |
私のいたテーブル (右端から私の母、私、Nさん) |
次ページ
|