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東京マラソン2008完走記

作成 2009. 5. 1











<はじめに>

2008年2月17日に参加した東京マラソンの完走記を一年以上経って公開しました。書き上げるのにあまりにも時間がかかり過ぎて(同じ年に行ったアメリカ・カナダ旅行記を書き上げるのに労力を費やし過ぎて、こちらに時間を割けなかったのもその理由です)、一時はやめてしまおうかとも思ったこともありましたが、やはり待望の東京都心を走れるこの素晴らしい大会にせっかく参加できて、しかも参加倍率が高いために次にいつ出られるかわからないこの状況の中なので、参加できた貴重な記憶を残すべきだと思い、亀の歩みだけれども書き続け、ついに書き上げました。ただし、やはりこれだけ時間が経ってしまうと記憶にも曖昧なところが出てきてしまい、文中不正確なところが多々あるかもしれませんが、ご了承願います。



<マラソン受付&EXPO(2月16日)>

受付会場

ナンバーカード(ゼッケン)

昨年ついに実現した東京マラソン。第1回目の昨年は残念ながら倍率3倍の抽選に落選して参加できなかったが、今年は更に倍率の上がった5倍の抽選を見事突破し、参加できることになった。そして待ちに待ったレース当日が近づいてきたが、その前にまずやらなければならないのが、レースの受付である。日本で行なわれている多くのマラソン大会(10kmやハーフマラソン含む)の受付は、レース当日(あるいは前日と当日)に行なわれていると思うが、この東京マラソンは3日前から受付が行なわれているにもかかわらず、当日受付はやっていない。したがって、レース前に一度受付会場へ出向かなければならない。それから東京マラソンでは受付と並行して、マラソンEXPOという、マラソンに協賛したメーカーが大きなブースを持って自分たちの商品を展示したり販売したりする催しが開催される。このような形式の大会は日本で珍しい(京都シティハーフマラソンは規模は小さいが、かなりこの形式に近い)が、私がかつて参加したニューヨークシティマラソンやボストンマラソンではこの形式をとっており、自分自身全く違和感がなかった・・・というか、東京マラソンが、これらの先輩大都市マラソンを参考にしたのだろう。

雷門のようなEXPOへの入口

ということでレース前日の2月16日、東京ビッグサイトの受付会場へ行った。ちなみに第1回目の受付は東京ドームで行なわれていたのだが、今年はビッグサイトへ変わった。マラソンのゴール地点はビッグサイトの横なので、そういう意味からするとこちらの方がしっくりする気もするが、実際の変わった理由は知らない。(私としては、ビッグサイトよりも東京ドームの方が家に近いので、昨年のままにしてほしかったのではあるが・・・。)会場に着くと、ランナー受付入口と直接EXPOへつながる入口とわかれているが、私は翌日マラソンを走るので、まずはランナー受付へ向かう。このランナー受付入口は、実際に走る人間でなければ入れない。実は私は、せっかく開催が実現した東京マラソンということで昨年もマラソン受付会場へ足を運んだのであるが、昨年は抽選に漏れたため走れず、したがって当然受付会場エリアへは入れず、EXPOへ直行した。受付会場へ入っていく翌日レースへ出場するランナーを横目に見ながらEXPOへ向かっていくというのは、やはり素直に気持ちいいとは言えない。所詮我々は蚊帳の外ということで、疎外感すら感じる。ところが今年はランナーとして堂々と受付エリアへ入っていけるのだから、やはり気持ちは別格だった。受付会場へ入って自分のナンバーカード(ゼッケン)引換証と交換し、ついに待望のナンバーカードを得た。これで、いよいよ明日念願の東京マラソンを走るんだという実感が湧いてきた。

EXPO会場の様子

受付が終わった後は、マラソンEXPOを見てきた。去年と同じような(浅草雷門をイメージしたと思われる)赤門をくぐって入ると、東京マラソン協賛企業のブースであふれていたが、やはりメインスポンサーのアシックスのブースは際立って大きく、結局そこのブースへ入ってかなり時間を費やしてしまい、買物も多数してしまった。(ちなみに、このブースでは値引きなしだったが、今大会を記念したグッズが多かったので、ついついたくさん買ってしまった。)アシックスの他は、ナイキ、アディダス、ミズノなど主要メーカーのブースはほとんど全てあったが、やはりどこかアシックスによって片隅に追いやられている感は否めなかった。そのなかでもナイキのブースはやはり一番大きかったが、ナイキはちょっとファッショナブルに走りすぎていて、泥臭い「陸上競技」が好きな私にとっては、どうも馴染みにくく、ついつい避けてしまった。それら以外には、スターツなどが行なっていた東京マラソンのコース全体をランナー目線から時間を短縮して放映するコーナーなどは、見ごたえがあった。あと、有名人によるトークショーなども行なわれていて、増田明美さんと市橋有里さんのトークや、小出監督のトークショーなども行なわれていた。

そのうち、かつての日本マラソン界のスーパースターだったあの瀬古利彦さんのサイン会が行われているブースへ辿り着いた。「瀬古利彦マラソンの真髄」という本を買うと、そこで瀬古さん本人のサインをもらえるというものだった。しかしこの本は既に持っていたし、どうしようか最初迷ったが、本人からサインをもらえる機会はそうそうないことだし、同じ本をもう一回買ってサインを貰うことにした。そしてサインをもらうときが来たが、ただもらって「ありがとうございました。」だけでは面白くない。そこで、瀬古さんが早稲田大学出身で私も早稲田出身ということを思い出し、ちょっと話しかけて見た。


私    : 私、ワセダ出身なんです。同好会でしたけど。
瀬古さん : そうなんだ。織田フィールドで練習してたの?
私    : そうです。
瀬古さん : 長距離専門だったんですか?
私    : いや、中距離やってました。全然遅かったですけど。
        マラソンでは、一応ぎりぎり3時間切れました。4年前です。
瀬古さん : 結構、速いね。



こんなような内容の会話をした。それにしても瀬古さんと言えば、早稲田競走部在籍中に陸上界どころか、日本スポーツ界のスーパースターだった。競走部のレギュラーになれるかどうか微妙な位置の選手ならともかく、日本長距離界で既に右に出るものはいなかった状況で、自分よりもはるかに競技力が劣る同好会の選手のことなんて全然関心がなく知らないと思っていただけに、早大同好会が織田フィールドで練習していたことを知っていて、びっくりした。その後、せっかくだから瀬古さんと一緒にツーショット写真を撮ってもらおうとずうずうしくも申し出て、瀬古さんのサイン会の手伝いをしていると思われる人に写真を撮ってもらった。(それにしても昔の自分なら、有名人に対してとてもこういう態度はとれなかった。自分もずいぶんずうずうしくなったものだ。)

瀬古さんとのツーショット写真

かつてのスーパースターと会話をして写真まで一緒に撮ってもらって、今日はもうこれだけでお腹一杯という感じになってしまった。あとは、先に書いたアシックスのブースなどで、せっかくのオリジナル品ということもあって、ウェアなどを大量に買ってしまい(3万円オーバー、ちょっと買い過ぎてしまったかな?)、ちょっと浪費してしまったかなという気持ちはある。まあそれはおいといて、明日はいよいよ本番。今回はニューヨーク、ボストンのときと同じようにカメラを持ってゆっくり4時間ちょうどぐらいで走るつもり。天気は晴とのことだし、存分に楽しんできたい。



<レース当日(2月17日)>
そして東京マラソン当日。昨年3倍の倍率の抽選に外れて出られず、今年は5倍の倍率を突破して運良く走れ、来年はまた全く走れる保障がないからこそ余計に貴重だ。東京マラソンの特色は都内の観光名所を巡るコースになっており、走りながら観光名所を見られること。だから今回も、記録を目指してひたすら時計とにらめっこしながらわき目も振らずに走るなどというもったいないことはせず、過去のニューヨークやボストンで行ったように、余裕を持てるペースで風景を楽しみつつ、随時写真を撮りながら走る事にした。だからといって、練習を全く手抜きをした訳ではなく、通勤ランニングを中心に220km程度、記録を狙わないレースとしては結構な距離を走り込んで準備してきた。やはりマラソンはある程度準備をしておかないと、必ず中盤以降脚を攣ってしまったりして地獄が待っていることは、過去数レース(01年ニューヨークマラソン、02年北海道マラソン等)で痛いほど思い知っているので、レースを楽しむためにもある程度準備は必要である。目標は、4時間ちょうどぐらい。過去4時間をオーバーしているのは海外で走った2回だけなので、できれば余裕を持ちながら3時間台で走りたいと思った。

レースは9時10分スタート。ただ、レース前に用を足しておかなければならず、トイレで並ぶ時間も考慮して、7時45分には会場の新宿の都庁前へ到着した。予定通り用(大の方)を足した後、荷物を預ける(ゴールのお台場にある東京ビッグサイトまでトラックで運んでくれる)制限時間が迫ってきた。そこで走る格好をどうしようかと考えたが、この冬は例年よりも寒くこの日もまた寒かったので、ゆっくり走って体温もあまり上がらないことも考えて、長袖とタイツに胸がエンジ色でそこに「稲穂AC」のロゴが入ったユニフォームをその上に着て走る事にした。(ちなみにこの稲穂ACというのは私が大学時代所属していた早大陸上同好会のOBの一部により作られたクラブであるが、現在事実上休止状態で、恐らくこのユニフォームを着ているのは私のみと思われる。)スタート40分前に再びトイレ(小の方)に行った後は、どこのトイレを見てもかなりの列ができていたので、もうトイレに行くのはやめた。

快晴の空の下でのスタート

スタート地点は、陸連登録者はこの大会でも他の国内のレースと同じようにやはり最も前のブロックからスタートできる優先権が与えられ、私は陸連登録をしているので一番前のAブロックへ並べた。スタート地点に立ってから、スタートまではまだ30分以上ある。やはりこのままの格好では体が冷え切ってしまうので、ビニール袋を切り抜いたポンチョをかぶって待つことにした。私は、6年半前のニューヨーク、2年前のボストンと使い捨てカメラを持って走ったが、デジカメを持って走って落としてしまって壊してしまうのは不安なので、今回も使い捨てカメラで途中の風景を撮りながら走ることにした。ただ周りを見ると、デジカメを持っているランナーがたくさんいて、やはり自分もデジカメにすればよかったかなと、ちょっと後悔した。それにしても驚いたのは、仮装ランナーの多さである。明らかに通常の大会の何倍もいて、普通はまじめランナーしかいないような陸連登録の部にも、かなりの仮装ランナーがいたのにはビックリした。(特に黒いハットに黒装束、サングラスをかけながらTHE BOOMの「風になりたい」を全員で歌う、陸連登録している集団が目立っていた。)スタート地点の横には都庁ビルがそびえ立ち、晴れていることもあって本当に素晴らしい風景。これだけで、もうこの大会に参加できて本当に良かったという気分になってきてわくわくしてきた。ただ、それにちょっと水を差したのが、早くもまたトイレに行きたくなったことである。しかしもうスタートまで時間もないし、今更トイレに並ぶわけにもいかず、そのままスタートしてコース途中のトイレまで我慢することにした。スタート直前は、スタートライン近くで色々セレモニーはやっていたようだが、私は陸連登録の部の後ろの方にいたせいか、良く聞こえない。結局何をやっているのか良くらからないまま、まず車椅子の部がスタートし、その5分後にフルマラソンの部がスタートした。(石原慎太郎東京都知事がスタートのピストルを撃ったそうだが、よくわからなかった。)

いよいよスタート。やはり陸連登録しているおかげで、スタートラインまで到達するまではほとんど時間を要さなかった(最後尾通過が20分といわれている中、たった50秒で済んだ)。そしてスタートラインを通過する直前、去年も東京マラソンの象徴的風景となったスタート直後の桜吹雪が今年もランナーの上に降らされ、本当に綺麗だ。スタートして間もなく、早くも東京マラソンの見所の一つである新宿大ガードに来る。ちょうど10年前の東京シティハーフマラソンでも経験したが、この大ガードの下の普段車が通る道をランナーが走って通れるのは格別だ。大ガード下をくぐり抜けてからは、靖国通り一杯にランナーが広がっていて、これはまさにニューヨークマラソンで見た光景。やっと日本でもこんな大会が開かれるようになったんだと感激した。外国からの参加者も、やはり普段走る国内のロードレースより明らかに多かった。しかし、東京マラソンの素晴らしさに感激している一方、スタート前から我慢していたトイレがついに限界に達してきた。2km地点で仮設トイレを見つけたので、そこへ早速入った。やはり3万人もの人数が参加する東京マラソン、トイレも当然混んでいて、終えるのに結局6分以上かかった。まあ、今回は楽しみながら走ることが目的だったので、別にトイレに長く待たされてもイライラはしなかった。

新宿大ガードへ向かっていくランナーの大群

トイレを済ませてから、靖国通りを直進し市ヶ谷に突き当たってからは外堀通りを北上するコースは、10年前に走った東京シティハーフマラソンと全く同じである。この東京シティハーフマラソンと同じコースでそのまま東京駅前を通過し品川まで行くものと思い込んでいたら、飯田橋に来た所でコースが右折し、ちょっとビックリした。東京マラソンでも、前半はそっくりそのまま東京シティハーフマラソンと同じコースをとると思い込んでいたが、コース前半も多少変えていたようである。この日は、寒いこととゆっくり走ることもあって、長袖タイツ姿で走ることにしたが、この地点でちょっと暑さを感じるようになってきた。回りにはランニングにランパン姿のランナーも大勢いるだけに、ちょっと失敗したかなとこのときは思った。そのうち、皇居の前に出た。以前あった東京国際マラソンやもう東京シティハーフは日比谷通りを走るため皇居が良く見えないが、東京マラソンは内堀通りを走るため、皇居が良く見える。東京マラソンの趣旨の一つに東京の観光名所をできるだけ巡るというのがあるが、従来の都心を走るロードレースのコースを変えて飯田橋で右折して内堀通りを走るようにしたのは、このためであろう。10kmレースの部は、この皇居内堀通りを走り抜けて日比谷公園でフィニッシュ。フルマラソンで目玉の銀座や浅草の雷門を体験せずに終わってしまう。やはり東京マラソンはフルを走ってこそ醍醐味を味わえると思う。

日比谷公園付近(10km過ぎ)の私

コース横に見える東京タワー

10kmの部のゴール地点を通過し11km付近に来ると、慎ちゃん練習会でお世話になっている慎ちゃんこと高橋さんが沿道で応援してくれていた。いくら沿道の応援が多いのがすばらしいとはいえ、やはり知っている人がいるのといないのとは大違いだ。ここで慎ちゃんと挨拶して、先へ進んだ。ここから先に進んでいくと、東京タワーを横に見ながら増上寺の前を通過し、田町駅前へ出る。この辺りで、大学の陸上同好会で同期だった友人のS君とすれ違った。田町駅前からは、国道15号を品川方面へ進むが、私はかつて2年間芝浦で勤務したことがあり、この辺の地理にも馴染みがあるので、なんか懐かしい気持になった。品川で折り返してからしばらくすると、シューズが合わなかったのか、右足親指にずっと圧迫感を感じていたのがもう我慢できなくなって、一旦立ち止まりシューズのひもを締めなおし、再び走りはじめた。

折り返してきたコースをずっと進んでいくと、日比谷交差点で右折して、いよいよこのマラソンの目玉である銀座へ進んでいくわけであるが、ここで右折する直前で対向車線にまだ、10kmに到達していないランナー達が何人かいた。10kmに達していないのにもう歩いているので、おそらく完走は不可能だろう。こんな10kmまでも走り続けられないというのは、ほとんど全く練習していないことは明らかである。しかし、これだけ人気のある大会で抽選で落選して涙を呑んだ人達も大勢いるはずだし、各人それぞれ事情はあるかとは思うが、やはりある程度の距離を走り続けられる練習を積んだ上に参加するというのが、参加資格を与えられたものとしての最低限のマナーであろう。よく練習する時間がないという声を聞くが、ランニングほど時と場所を選ばないスポーツは、他を見渡してもそうそうない。これができないというのは単なる甘えか、あるいは本当にそれが不可能な状況にいるならば、やはり参加を辞退すべきであろう。とにかく当選した人は、その裏で走りたくとも落選して走れない人が大勢いるといるということを自覚してこの大会に臨んでもらいたい。

銀座の不二家ビル

銀座中央通り

まあ、愚痴はここまででおいといて、ついに私も待ちに待った銀座へ近づいた。目の前には有楽町駅前の不二家のビルが見える。思わずコースアウトして写真撮影してしまった。その後そこを通過して左折し、いよいよ銀座中央通りへ入って行った。実は滅多に出られないということで、母に沿道へ応援に来てくれるよう頼んだのだが、安易にも一番メジャーな場所である銀座のこの交差点で応援してくれるよう選んでしまった。しかしここへ到着してみて、沿道の応援の余りにもの人の多さに、よっぽどど派手に応援してくれない限り見つけることはできないなと思ったが、案の定見つけることができなかった。このときは、本当に失敗したと思ったが、もう後の祭りだった。その後はずっと銀座の中央通りを走り続けたが、マラソンでこんな贅沢な場所を走れるなんてことがついにできるようになったという喜びを噛みしめながら走った。そして本当はここ銀座の写真を撮りまくりたいのであるが、いかんせん今回持参したカメラは36枚撮りの使い捨てカメラ。使い捨ての中では最も多く枚数を撮れるものを選んだのであるが、それでもこれしかない。最初の高揚感からスタート地点辺りで結構枚数を撮ってしまっており、実はこの地点で既に25枚ほど撮ってしまっていることに気付き、しかも後には更に絵になる浅草の雷門が控えていていることや、フィニッシュ地点も撮りたいことを考えると、ここでフィルムを使いきってしまうわけにはいかない。結局、銀座の中央通りの写真はこの時点で1枚のみしか撮らなかった。

銀座の中央通りをずっと進んでいくと日本橋に行き当たる。私自身実はそれほど詳しく東京マラソンのコースをチェックしておらず、どの辺を回るかの大まかな感じはつかんでいたものの、どこそこの交差点を曲がるというレベルまでは把握していなかった。だから、東京マラソンのコースはこのマラソンのコースを実際に走るまでは、ずっと日本橋を通過するとばかり信じて走っていた。この通りでも代表的な建物のひとつである高島屋を通り過ぎるとすぐ前に首都高が見え、その下がまさに"日本橋"であり、そこへ行くと思っていたところ、意外にもマラソンコースはその直前の交差点で右折してしまい、ちょっと意表を突かれた形になってしまった。結局日本橋の上を通過することなく、今度は銀座と同様にこのコースの目玉である浅草の雷門へ向けて進んで行った。銀座の中央通りではあれだけ沿道の人が多かったのが、23km地点あたりから人がまばらになっていた。この沿道の人込み合い具合をみて、ちょっと母親に待ってもらった地点の選定に失敗したかなと思った。このあたりで待ってもらっていれば、見つけられる可能性も高かったと思う。しかしこればかりは一回経験してみないとわからないから、しょうがない。 それにしてもこの大会、やはり仮装ランナーが多く、私のすぐそばには頭に東京タワーの模型を頭にかぶった外人さんがいたし、ちょっと離れたところには水戸黄門の衣装を着たランナーがいて、さかんに「黄門様、黄門様」と声をかけられていた。それから、この辺りまで走ってきて、踊りや太鼓等による演奏などを沿道で見ることができ、これはいつもの大会よりは明らかに多い。これらは東京マラソン事務局が用意したイベントと思われ、マラソンをお祭りとして盛り上げているのは間違いない。ただ、過去ニューヨークマラソンやボストンマラソンに参加して、沿道でロックバンド演奏が演奏しているすごい派手な応援(?)など見てきて、しかもこれらは大会主催者が用意したものではなく、どう見ても観衆の一部が自主的に行なっているもので、しかもランナーに与えるインパクトはやはりこれらの方がやはり大きく、それに比べるとちょっと物足りないなとは思いながら走った。

コース正面に見える浅草雷門

別の角度からの雷門(この直後、転倒事故が・・・)

25km地点あたりを過ぎると浅草地区へ入り、いよいよ雷門が近づいてくる。東京マラソンのコースは、実は私が02年から04年までの2年間の間芝浦で勤務していたときに勤務後に走りに出かけてほとんどのコースは走破していたのであるが、この浅草地区だけは走った経験がなかった。したがってこの辺からは未知の風景であり、そういう意味では銀座のど真中を走った時のような高揚感はないものの、新鮮な気持を持って走れた。27km付近に来て、いよいよ浅草浅草寺の雷門へ近づいてきたが、その前に東京マラソン名物の人形焼を提供するエイドステーションがあったので、人形焼をいただいた。それにしてもここのエイドステーションを担当していた高校生と思われるボランティアが、「人形焼はボソボソするから、一気にたくたん食べたら喉に詰まって食べにくいですよ。」のような内容のことを半分冗談でランナーに向かって言っていたのは面白かった。人形焼コーナーを通過するとすぐに雷門がコースのまさに目の前に見えた。本当にコースのまん前にあの有名な景色が実際に見えるので、なんだか不思議な感じがした。東京マラソンのコースの中でも最高傑作のひとつだと思う。当然ここは写真に収める風景。ここの中央分離帯には結構高い段があり、ここに登れば一番良く雷門の写真を撮れそうだったのでここに登って雷門の写真を撮った。この後ランナーの流れに合流したが、せっかく雷門まで来たのだから、この一枚だけではもったいないと思い、もうひとつ別のアングルから撮ろうとして雷門手前で右折した直後にランナーの流れからコースアウトし、路肩から構えてもう一枚雷門の写真を撮った。

2枚目の雷門の写真を撮り終えて再びランナーの流れに合流しようとしたところ、突然全く予期していなかった事態に直面した。「ドカッ」と人と激突した衝撃を感じた後、目の前にかなりの勢いで転倒した人がいた。なんと私がランナーの流れに合流しようとしたときに、走っていたランナーとぶつかり、転倒させてしまったのである。転倒したランナーは、結構年配の方であったが、かなり痛そうでうずくまっていて、シューズも脱げてしまっていた。私はとんでもないことをしでかしてしまったと思ったと同時に、急いでその方の元に寄り、「大丈夫ですか。」と声をかけたが、すぐには立ち上がれそうもなさそうだった。すぐに大会で救護班を担当している国士舘大の学生がこの方の元に駆け寄り、この方の様子を伺っていた。もうこの方が立つことができなかったら、正直もうここで途中棄権しなければいけないと覚悟した。こちらが不安な気持ちで見守っていると、そのうちこの方が上体を起こして、「大丈夫です。」と言ってくださった。どうやら、このあとも走れるとのことである。その状態を聞いて少し安心し、「本当に申し訳ありませんでした。」とこの方にお詫びをした後、再び走り始めた。今までこの雷門へ来る前までは、初めての東京マラソンを走れたんだということですごくウキウキ気分だったのに、この出来事で一気にその気持ちがなくなった。とにかくこんな不注意事故を起こして他の人に大きな迷惑をかけてしまった自分自身に対してものすごく腹が立ち、「今後、もう二度とこんなことはするまい」と強く思った。

30km地点を通過する私

27.7kmあたりにある雷門で折り返して、沈んだ気持で走っていると、28km地点あたりでたくさんのカメラクルーに囲まれた人物が対向側から雷門方面へ近づいてくるのに気付いた。よく見ると、それは東国原宮崎県知事だった。東京マラソンは、芸能人やアナウンサーなどの有名人がたくさん出ることは知っていたが、走りながら有名人を目撃したのは、実はこれが初めてだった。東国原知事を見て、至近距離ではあるが今回は自分の方が先行しているのだと知って、ちょっと驚いた。実は東国原知事とは過去に1度だけ直接対決したことがあり、11年半前のつくばマラソンで私が3時間22分22秒に対し、知事3時間14分29秒で私が負けている。私は今回カメラを持っての観光ランニングだし、知事の走力からしてこんな状態の私よりは先行するだろうと思っていたので意外だった。やはり知事になって公務で忙しく、練習が積めていないのであろう。今回はこの様子だとどうにか知事には先着できそうだ。(ちなみに東国原知事のマラソンのベストが3時間06分58秒なのに対し、私のベストは2時間59分22秒であり、知事という激務と年齢を考えると、自己最高記録は私の逃げ切りで終わりそうである。) 東国原知事とすれ違った後、しばらくすると脚が攣り始めた。今回、東京の風景を楽しみ、写真を撮りながらの観光ランニングを予定していたとはいえ、2001年のニューヨークマラソンのように練習不足のままマラソンに出てひどい目にあっているので、1月は230km近く走り込んでおり、余裕を十分すぎるほど持ったペースでのマラソンなら全く問題ない練習量を積めたと思っていた。しかし、この地点で脚が攣り始めてしまった。やはりマラソンは甘くない。こうなるとそれまでと同じフォームを続けるとすぐに同じ個所が再び攣ってしまうので、脚にかかる重心を微妙にずらしたりしながら、どうにかこれをしのいだ。

30km地点で再びトイレを済ませた後、今度は再び銀座の中央通りへ入っていく。雷門で年配の方を転倒させてしまった後は、もうとてもこの後写真なんて撮る気にならなくなっていたが、このあたりに来て少しそういう感情も和らぎ、前半残りのフィルム枚数を気にして撮らなかった高島屋の写真などを撮った。残念だったのは、前半この地点を通過した時は快晴の空だったのに、この地点では曇ってしまって、淀んだ風景になってしまったことである。中央通りが終わりに差しかかる34kmあたりからは、前半見逃してしまった母をまだ見つけられるかもしれないと、あえて走りから歩きに変えて沿道の中を注意深く探した。私が歩いている姿を見てもうへこたれてしまったと思ったのか、沿道からは「ゼッケン12120番どうした!」という掛け声がかけられたり、ボランティアの方が駆け寄ってきて「どうしました、大丈夫ですか?」と聞いてきたので、「大丈夫です、ただ人を探しているだけです。」と答えて心配ないことを伝えた。結局この辺りでも母を見つけることはできなかった。やはりこれだけ人がいると、特定の目印を伝えて事前に伝えておくか、よほど目だった応援をしてくれない限り、見つけるのは難しい。こんな感じでこのあたりは母を探すことに集中していたので、結局このコースの見所のひとつである歌舞伎座の存在に気付かずに通過してしまった。

豊洲付近の風景

銀座を過ぎると築地に入るが、この辺りに来るとさすがに銀座に比べるとちょっと華やかさがなくなってくる。そのうち、上り坂に差しかかった。佃大橋である。この橋は結構大きな橋であるが、橋の中央付近に来ると今度は豊洲側にある高層マンション群が見えて、これは都心にある風景とはまた違った感じできれいだった。佃大橋を渡って豊洲に入ると道が広く最近できた洗練された地区という感じである。ただ、ここまで来ると、銀座、浅草までのようにがめつく風景を堪能しようという気持はなくなっていたので、割といつもの自分のロードレースの走りに近い感じになって快調さを取り戻していたので、15km以降常に5km28分以上かかっていたスプリットが、35〜40kmのスプリットは26分台まで上がっていた。まあしかし、疲れた終盤である。動かない脚を懸命に動かしている中、39km地点のジャスコ東雲店前に差しかかったときに、「横内さん!」という掛け声が聞こえた。声の方向を見ると、私のブログにもたびたび来ていただいていて、試合でも何度もご一緒させていただいているつじさんだった。11km地点で高橋さんと会って以来、ここまで一人も知り合いを沿道に見つけることができず、もうゴールまで知り合いと会うことはないだろうと思っていただけに意外だったと同時に、嬉しかった。東京マラソンは、本当に沿道の応援の人に切れ目がなく、そういう方々から力をもらって走れるのだが、しかし知り合いに声をかけてもらうのはまた別で、本当に力が湧く。

40km地点を通過する私

40km過ぎに出会った浅井えり子さん
(ちゃんとポーズを取ってくれました)

39km地点を過ぎるとゴールまであと少し。40km地点には昨年と同様アミノバリューのエイドステーションがあり、「去年、自分もここでアミノバリューの給水ボランティアしたな。」と思いながら通過した。すると、そのすぐ直後ぐらいになんだか見覚えのある女性ランナーが走っていた。近づくと、なんとあの浅井えり子さんだった。浅井えり子さんは、かつての日本女子マラソン界を支えたランナーのひとりで、1986年のアジア大会優勝、1988年のソウル五輪代表であり、また「ゆっくり走れば速くなる」で有名な故佐々木功監督の一番弟子であり、佐々木監督亡きあとの佐々木理論の継承者でもある。浅井さんの存在に気付いた後、ずうずうしくも、私は浅井さんの前に出て、「写真撮らせていただいていいですか?」と浅井さんへ問い掛けたら、「いいですよ。」と言って、にっこりと笑ってカメラに向かってポーズをとってくれた。その後は、私は浅井さんを差し置いて前へ行ってしまった。それにしても、市民ランナーとしては平平凡凡の私が、かつてのオリンピックランナーを差し置いて先に行ってしまうというのも、なんか不思議な感じがした。

そしていよいよゴール。ゴール地点は東京ビッグサイトの脇にあり、レース序盤から中盤にかけての都心の名所の華やかさに比べるとかなり地味であることは知っていたが、やはりそのとおりだった。この辺がニューヨークやボストンのように華やかだったらもっと良かったのにとは思ったが、ただ、中盤に贅沢な景色を楽しませてくれたのだから、これ以上要求するのはちょっと望み過ぎかもしれない。そしてフィニッシュ。タイムは4時間08分14秒(ネットタイム 4時間07分25秒)で、2001年のニューヨークマラソンでの自己ワースト4時間09分19秒を僅かに上回る自己2番目の悪い記録だった。雷門で年配のランナーさんを転倒させてしまって数分そこで立ち止まざるをえない状況があったりしたので、しょうがないタイムであろう。今回、あれだけ出たいと思っていた東京マラソンを完走したのに、フィニッシュ後はあまり晴れやかな気分にならなかったが、やはり雷門での転倒事故が尾を引きずっていたと思う。

フィニッシュ後は、この東京マラソンもニューヨークやボストンにならって、体温が下がらないように完走者へポンチョをかけてくれる。ポンチョをかけてもらった後荷物を取りに行ったがスムーズに荷物はもらえ、前年話題になった混乱は全くなかった。やはり前年の反省を活かして、このあたりの運用は改善したのだろう。荷物をもらった後は、S君夫妻と月島へ行ってもんじゃ焼きを食べた後、明走会の打ち上げにS君と一緒に参加させてもらって、レースを走った人、ボランティアをされた人たちと一緒にお話をし、盛り上がった。

フィニッシュ直前

私のフィニッシュシーン(今回は、ちゃんとポーズ取れた)







<レースを終えて>

2007年に初めて開催が実現した東京マラソン。あの東京のど真ん中を走れるということから、ランナーの憧れの大会であり、初回は倍率3倍、そして今回は5倍の狭き門(ちなみに2009年大会は7.5倍と倍率は更に上昇)となったが、希望が叶い当選した。都心の名所を巡るコース内容、メディアからの伝わってくる前回大会の情報や、実際にボランティアとして体験した経験から、走らなくても素晴らしい大会であろう事はわかっていたが、実際に参加させていただいて、期待にたがわぬ素晴らしい大会であることを体感できた。あれだけ沿道の応援が多く華やかな大会というのは、日本では経験したことがない。(敢えて言えば、北海道マラソンは札幌のど真中を通るコースで、東京マラソンと比較できる対象だと思うが、自分が参加していた96、97、02年の参加資格が4時間以内であり、お祭りにしてはちょっと制限時間が厳しかったと思う---ちなみに、今の制限時間は5時間。外国では、ニューヨークマラソンがコース全般にわたって華やかで、東京マラソンのモデルとしての存在を感じることができる。110年以上の圧倒的伝統のあるボストンマラソンは、前半は山林のさびれた場所を走ったので、意外と地味な印象が残った。)それから、遠くから見ると良く見えるが、実際に体験してみると悪い面が目立つといったことも珍しくはない(2003年の東京国際女子マラソンは、25周年記念で3時間15分を切った男性も出られるので参加したが、市民ランナーの扱いに慣れていないと思われ、かなり不満の残る運営だった)が、そういうこともなく、まさに最高の大会のひとつと言えると思う。2009年大会の抽選倍率はついに7.5倍もの狭き門となってしまったが、おそらくこれに近い倍率が今後も続くのだろう。本当に今後は、数少ない参加の機会をゲットできたら、その機会ごとに十分に大会を味わわないともったいないという気持にかられる。

あと、これは自分自身の問題であるが、今回途中で年配のランナーの方を転倒させてしまうという事故を起こしてしまって、大変反省している。自分自身、市民ランナーが走る速度は大したことがないので、写真を撮った後に急にコースインしても全く問題がないだろうとたかをくくって油断していたんだと思う。しかし、走っている側からすれば、まさか急に沿道から人が自分の目の前に現れるとは思わないだろう。自分と転倒させてしまった方との立場を逆転させれば、十分過ぎるほど理解できる。2001年のニューヨークマラソン以来、レースによってはカメラで風景を撮影しながらレースに出るということをたまに行なってきたが、トラブルは一度も起こしたことがなかったとこも油断の一因になってしまったと思う。ただし、走りながら写真を撮るという行為は、自分が見てきた風景を他の人に紹介するには一番の手段だと思うし、このような大会をお祭りとして楽しもうという心のスイッチの役割も果たしていると思う。だから、この事故を機にレース中の写真撮影はやはりやめたくない。ただ、これからは今までよりもずっと安全の意識を持って慎重にレース中の写真撮影を行なっていきたいと思う。